樟本神社
くすもとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】樟本神社 伊予国 越智郡鎮座

   【現社名】樟本神社
   【住所】愛媛県今治市八町西2-5
       北緯34度2分46秒、東経132度59分23秒
   【祭神】素盞嗚命 (合祀)皇女神
       木神『神名帳考証』『伊予二名集』

   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】貞観17年(875)4月5日従五位上
       長保2年(1000)神宮寺で勧学会を執行
       建長7年(1255)免田(面積不明)
       近世に入ると衰微
       嘉永6年(1853)造営
       明治4年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】本来は木を祀る
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王社」と称していた
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       幣殿・拝殿

   【境内社】

社名は長く「マキモト」と読まれてきたが、幕末になって「クスモト」とする説がでてきた。


樟本神社

御祭神 素盞鳴命 柑子女神
当社は素盞鳴命を奉祭し延喜式神名帳に載せられている古社であります。清和天皇の貞観7年4月5日従5位上を授けられ維新以前には旧今治藩主の御尊崇厚かった神社で式内社伊予24座越智郡7社のうちの1社であります。明治41年5月10日に柑子女神を当社に合併いたしました。
今から800余年前の昔、永暦年間(1160〜1161)のことです。立花の八丁に、非常に金持ちの家がありました。この家へある夕暮れ時に一人の女の人がやって来ました。あまりよい身なりではありませんが、とても気品があり、うりざね顔で色白の美しい娘さんでした。自ら「私は常世の国(異国、この場合現在の中華人民共和国をさします。)の生まれで名は柑子と申します。どうか下女にでも使って下さい。」と懇願するので、主人は同情して使うことにしました。柑子さんは、かいがいしくよく働くのと、料理がとても上手なので、主人夫婦をはじめ家中の者から「柑子や、柑子や。」と言われ大事にされました。しかし、柑子さんは、料理をする時は人を一切近づけず、料理のこつは人に絶対話しませんでした。そこで好奇心にかられた主人夫婦は、柑子さんが料理をしているのを、ふすまのすき間からそうっとのぞき見をしました。蛇で料理に味をつけているのを見た主人夫婦は、驚きと気味の悪さにぞっとしました。主人は怒りの念を押さえることが出来ず、一刀を握るや「よくも人の忌みきらう長虫を食わせやがった。一刻も容赦は出来ぬ、不らちなやつめ、エーイ」と、その場で、無惨にも右肩深く切り下げて殺してしまいました。後で裏の竹やぶに、蛇のうろこがうず高く積み上げられているのが発見されました。―一説には、妻が味つけの秘法を知るために柑子さんに暇を与えていろいろ調べ、台所の床下から蛇の頭や骨が散乱しているのを発見し、きつく叱りつけたのがもとで、悩み苦しんだすえ自殺したともいわれています。
 ところが、柑子さんを手討にしてから7日目に、主人がわけのわからぬ病気にかかって急死しました。続いて、妻が狂って入水し、子供たちも次から次へと病死して、半年もたたない間に一家全滅の災難にあいました。また、村人の中にもよからぬことで苦しむ者が続出しました。村人たちは、これはてき面に柑子さんのたたりだと恐れをいだき、相談の結果、『柑子女神』と言う神様にしてお宮を造って、その霊をてい重に祭って村の平和を祈ったということです。
 鎌倉時代に幕末に報告した『免田記』と言う書物によると、沢山の田を寄進されており、昔はいかに大きな社であったかがうかがわれます。柑子神社は明治41年(1908)に須佐之男命を祭ってある樟本神社に一緒にお祭りするようになり、今日に至っています。もとの柑子神社の跡は、現在織物工場が建っていますが、柱の土台になった磁石が残っており、当時の柑子の社を思わす唯一の資料になっています。

社頭掲示板



樟本神社

当社は、延喜式内の古社で、三代実録、類聚国史に「貞観17年乙来4月5日丁己授 伊予国従五位下樟本神従五位上一」とあり、予陽郡邑古考鈔に「大宝元年9月5日勅奉国司散位小千宿祢玉興出雲国より国中へ、二八社遷し奉るその一社なり」とある。
 明治41年5月10日合併した柑子神社は、鎌倉時代、幕府に注進した国分寺免田記によれば、「上分科早米一五石国分寺五石八幡宮二石五斗三島宮二石五斗柑子御宮二石五斗、油一斗内国分寺一升三島宮三升惣社三升柑子御宮三升」とあり、又、「仁王講田ノ内柑子御宮三一反、大般若田ノ内柑子御宮六丁四反及び柑子不断経十三丁五反半計二三丁半反」の免田を所有していた。

愛媛県神社庁



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