神社奥の院の磐座信仰を起源とし、その後現在地に社殿が営まれたものと考えられる。 社伝によれば、第10代崇神天皇の御代、饒速日命六世の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り、初代斎宮になったという。 多伎川を遡った山頂近くに川上巌(かわかみのいわお)と呼ばれる磐座があり、奥の院とされる。雨乞いに霊験があると伝えられ、もとはこの磐座信仰に始まると考えられる。 |
多伎神社 多伎神社由緒 旧社格 式内大社、県社 祭神 多伎津比売命、多伎津比古命、須佐之男命 『当神社は文献に「瀧之神」とあり、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神天皇の御代饒速日命(にぎはやしのみこと)六代の孫伊香武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮となられたと記されています。 清和天皇の貞観2年(860)神階を賜り、大三島さん、伊曽乃さんと相並んで数度に渉り昇格し、貞観12年正四位上に昇りました。(三代実録) 醍醐天皇の延喜年間(905)式内大社(伊予国に七柱)に列格の光栄に預り、皇室より久しく特別の待遇に浴し国司、守護職、領主をはじめ庶民の信仰を集めました。 江戸時代今治藩の祈願所として、雨乞祈願のたびごとに藩主の参拝あり、七日間の木願は中日迄を本殿で、後半を奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ、必ず霊験をいただいたのであります。 広大な境内地の愛媛県指定史蹟三十数基の群集古墳からは古い歴史と由緒が伺われ、多伎川の清流と照葉樹を中心とした自然林は全国でも有数、まさに神様のお座します所であります 社頭掲示板 |
多伎神社 県指定 多伎の宮古墳群 当所は昭和34年12月25日県指定を受けた古墳群である。 社殿の裏及び境内一帯に30数基の古墳群がある。約1300年前(西紀6〜7世紀頃)作られたものである。 外形円墳にて内部玄室と、これに通ずる索道を備えた完全な横穴式石室をもったものが多い。特に社殿の真裏の比較的小石を積上げて作った大きいものは高麗式墳と言われている。大方は盗掘されているが昔の姿をとどめている。開扉された結果、不正確ではあるが、この地方を支配していた有力者の一族の墓であろうと推定される。 社頭掲示板 |
多伎神社 愛媛県指定 史跡多伎神社古墳群 多伎神社古墳群は、多伎川の上流が形成した扇状地奥の谷部にあり、東西約300m、南北約100mの範囲に分布しています。この谷間に多伎神社と15基あまりの古墳があり、このうち横穴式石室をもつ円墳が3基開口しています。 中でも5号古墳は大きく、直径約15m、高さ3mあまりの墳丘をもっています。石室は、両袖式の横穴式石室で、全長は約6.2m、玄室(げんしつ)の長さ約5m、幅約1.5m、高さ約1.9mです。構造は持ち送り式で天井石を6枚使用しています。羨道(せんどう)部では天井石を3枚使用しています。 指定前にくずれていた古墳数基も横穴式石室であることから、現存する古墳も多くは同形式(6世紀後半〜7世紀前半頃)のものと見られています。なお社殿裏の1号古墳のみ、小石を積み上げて造った積石塚(つみいしつか)と思われ、他の古墳との違いが見られます。 昭和34年12月25日指定 愛媛県教育委員会・今治市教育委員会 社頭掲示板 |
多伎神社 磐座祭祀にはじまる古社 当神社は瀧の宮さんの名で親しまれ、その起源は弥生時代後期(2〜3世紀)に遡る。 当時既にこの地方では稲作が行われていて水は水田耕作には不可欠なれば、水分(みくまり)の神への信仰は切なるものであったに相違ない。 神社の手前を流れる多伎川の水源は最高峰天道(てんど)ヶ頭(とう)(510.3m)にあり、磐座はその山の8合目あたりに位置する。 川沿の道なき道を登り、沢を渡ると胸を突く急斜面、やがて大小の岩石が吃立するその再頂部には丈4m、周囲は後方が山に埋れて測れないが最短距離でも20mを下らない巨岩と下方にも幾分小ぶりの岩がある。 それを磐座として祭祀が営まれていた。 後世奥の院のフスベ岩と云われ昭和の初期まで雨乞(あまごい)の神事が行われ、その霊験極めてあらたかであったことは今日にも伝えられている。 延喜式内大社・元県社の社格 上古にあっては磐座で祭祀をしていたが、頓田川の支流多伎川沿の現社地に遷され、のち社殿を設けるようになったのは、今を遡る1300年以上昔のことかと思われる。 磐座祭祀にはじまる伊予国屈指の古社なれば清和天皇貞観2年(860)神階を授かり大山祇神社、伊曽乃神社と相並んで数度に亘り昇格、貞観12年には正4位上を賜わる。 醍醐天皇の延喜年間(901〜923)明神大社の光栄に預る等皇室の尊崇篤く、伊予国国府にも近く、当時は重要な拠点であったことが察せられる。 時代につれ国司・守護職・藩主の格別の待遇に浴した。 明治4年郷社に列し、同13年県社に昇格。 神様のおわします神奈備の社 当神社は奥の院を含めて3万坪に近い境内地を所有し、社叢は照葉樹を主にした自然林で、緑青をふいた流麗な社殿周辺には杉・桧の古木・老木も聳え立つ。 社殿前方には奥の院を水源とする多伎川の清流、神橋八雲橋の周辺を中心にモミジも多く、今治市唯一の紅葉の名所でもある。 新緑の頃も格別で、椎の群生林につける黄金色に輝く花もこの社の特徴である。 社殿周辺を中心に50基を数える群集古墳もあり、社叢に古墳を探し歩き、終日陽の届くことない多伎宮古道(旧参道)を散策し、また亭(ちん)(休憩所)に腰かけて多伎川の流れに耳を傾ければ心地よく、吹く風さわやかに真夏も汗が引くのを覚える。 森林浴にも一等地かと思います。 由緒書 |
杯状穴(性穴)遺構 杯状穴遺構は、古くは弥生時代から近現代まで続けられている文化遺産と言われています。一説によると、遺構の目的は、戦場や各地におもむいた男性の帰宅を求めた精神的な祈願行為で 生じた”たたき穴”で、前者の祈願穴に結び祈願を続けたと言われています。 朝倉村教育委員会 社頭掲示板 |
多伎神社 この地は弥生時代後期の集落跡・水田跡多数あり、20年程前圃場整備の際、全国的にも大規模な穀物地下貯蔵庫が発見された。 集落のある処に神祭あり、磐座を依り代として水分(みくまり)の神を崇め相集い祭祀をしたものと思われる。現在の地を神の杜としたのは、周辺の古墳群との関わりが多く、この時代に遷されたものと推測する。 多伎宮の語源は、多伎川に数ある瀧ではなく、嶽(天道ヶ頭 510.3m、及び8合目に座す磐座)が訛ってタキになったのではないかと思われる。社名・ご祭神名はこれに由来すると思われ、主祭神須佐之男命は後世勧請されたのではないだろうか。当神社は文献によると崇神天皇の御代ニギハヤヒノミコト六代の孫伊香武雄命「瀧の宮」の社号を奉り初代の斎宮となられたと記されている。 清和天皇の貞観2年(860)神階を賜り大三島さん、伊曾乃さんと相並んで数度に亘り昇格し、貞観12年正四位上に昇る。 醍醐天皇の延喜年間(905)明神大社の光栄に預かり、皇室より久しく特別の待遇に浴し、時代とともに国司・守護職・藩主の信仰をあつめた。 伊予国神社仏閣免田注進記(慶長7年 1256)によると「瀧宮神田三町一反 神領多く11寺の別当あり」と伝えられる。 江戸時代今治藩の祈願所として雨乞い祈願のたびごとに藩主の参拝あり、7日間の祈願は中日まで本殿で、後半を奥の院の磐座にて一社伝来のしきたりによって執り行われ必ず霊験を戴いたという。 明治4年郷社に列し、同13年に県社に列格。 愛媛県神社庁 |