大須伎神社
おおすぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大須伎神社 伊予国 越智郡鎮座

   【現社名】大須伎神社
   【住所】愛媛県今治市高橋358-3
       北緯34度1分53秒、東経132度57分49秒
   【祭神】少那毘古那命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】推古天皇4年廐戸皇子の親筆神名額の奉納
       延喜16年(916)大洪水社殿流失
       寛弘8年(1011)大洪水社殿流失
       承久2年(1220)大洪水社殿流失
       正長元年(1428)大洪水社殿流失
       明治44年現在地に遷座し伊予熊野神社と小林八幡神社を合祀

   【関係氏族】越智氏と同族高橋氏
   【鎮座地】もとは字倉橋の蒼社川堤防下にあり
        明治44年現在地に遷座

   【祭祀対象】本来は木霊を祀る
   【祭祀】江戸時代は「大次大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿

   【境内社】稲荷神社

社名は境内に大木が繁つていたことに由来するという。
近世には村内の小社として明細帳に記載され、『今治領寺社明細言上書』には伊予熊権現や村氏神の小林八幡宮の下位に、「一、大須岐大明神」とのみある末社的存在となつていた。その後、近代になつて村内の諸社を伊予熊権現の社地に合社し、これを大須伎神社としたものが、現在に及んでいる。


大須伎神社

名神 大須伎神社御由来
祭神 小名毘古那命  阿遅鋤高日子根命
   伊邪那美命 熊野忍隅命
   品陀和気命 息長帯姫命
当社は推古天皇の4年厩戸皇子の神号の扁額を親書奉納ありし程の名神にして上古より官民の崇敬厚く醍醐天皇の勅命を以て毎年幣帛を奉ることになっていた天皇は延喜12年左大臣藤原忠平に勅し全国から神徳殊に顕著な名神2,661社を選び延喜式神社名帳に記載しこれを式内社と称し県内に24座今治越智地区に7社あり大須伎神社はその一つにして昔時より参拝者多し。
伊予熊野神社は初代藩主定房公以来歴代藩主の祈願所として崇敬厚く社殿を造営し御初穂料を奉納される等特別の御縁故あり藩制時代から祭礼には賑わしい行列が行われていた 小林八幡神社は国司玉純項の尊崇厚く神領水田を寄進された明治44年社殿を此の地に奉遷し伊予熊野神社小林八幡神社を合祀す 前の社地は児童公園として現在に至る
昭和60年10月吉日

社頭掲示板



大須伎神社

稲荷神社の御由緒
此の山の顛の稲荷神社は慶長の昔藤堂高虎候が山城国伏見稲荷神社を勧請せられた御社であります。始め高虎候が今治城を築城の時方数間もある荘麗無比の社殿を建てられ、この御神霊を城内に祀られたが程なく国替えとなり、初代久松定房候が城主となるに及んで御信仰ことの外厚く寛文10年伊予熊野神社を再興せられた時社殿を建てて稲荷神社の御神霊をここに遷されました。
代々の藩主は2月の初午祭と11月の例祭ごとに近臣を使わして御代拝せしめた他、毎年一度ずつ自ら御参拝になって幣帛を奉り厚く御尊崇になられました。
高虎候が計画した百分の一の模型は現に此の殿内に奉安してあります。これは定房候が今治城内よりここに奉遷せられたものであります。

社頭掲示板



大須伎神社

雨乞石
古代から大旱魃の年には、村民が此の石の許に集まって、雨乞祈祷を行った。その時不思議にも此の石が潤い、くぼみに水滴ができ、大降雨となって恵みの雨を戴いたと伝えられている。
御宝松
この石積の中に御宝松と称する樹齢百年を経た老松があった。 その昔これを切ろうとした時、一羽の鳥飛来して鳴いて切らさず、 爾来村民はこれを御宝松と称して崇めたが樹齢つきて枯死した。その鳥の止まった御宝松の姿を描いた狩野某の絵は、当社の宝物としていたが、昭和20年宝物庫の戦災で焼失した。御宝松の跡に実生した二代松も松食虫の被害を受けたため現在の松を移植した。

社頭掲示板



大須伎神社

推古天皇4年厩戸皇子の親筆神名額の奉納あり。醍醐天皇の勅命により延長5年撰修の延喜式神名帳に所載されている。
 延喜16年9月25日、寛弘8年、承久2年、正長元年等の大洪水に社殿流失し、打ち続く戦乱のため神田も荒廃して、往昔宏大であった社頭の構造も衰退した。

愛媛県神社庁



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