宮内神社
みやうちじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】周敷神社 伊予国 桑村郡鎮座

   【現社名】宮内神社
   【住所】愛媛県西条市宮之内松原47
       北緯33度56分50秒  東経133度3分10秒
   【祭神】大山祇神 高おかみ神 雷神
   【例祭】6月14日 夏季大祭 10月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       文安6年(1449)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・随神門・絵馬殿・倉・社務所・井戸舎

   【境内社】

大明神川に面して鎮座している。
道路を挟んで「神苑」と称する広い土地が広がっている。


宮内神社

庄内、三芳、楠地区の郷社。文安6年(1449)、玉殿造立の棟札から東予市近郊では最古のものであろうと言われている。祭神は大山祇神、高神、雷神。秋祭りには三体の神輿が地域に分かれおでましになる。最近、子供神輿。暴れ獅子の乱舞で宮出しも活気を呈してきている。深い巨木の繁みが移りゆく四季の風情をおりなしている。

社頭掲示板



宮内神社

由緒については種々の伝説があり、二三について記す。
 舒明天皇行宮の古跡であり、天皇の御世11年12月伊予国国司に勅して大三島明神を勧請し、三島新宮と称した。また行宮を津ノ宮と号し、これが郷名になって津宮郷と同地方が唱えられた。
 斉明天皇崩御の際には、当神社に奉幣勅願があり、また貞観13年6月(871)に勅して全国の名社に祈雨祭を行わしめられたとき、伊予国桑村郡津ノ宮大明神の神名が列せられている。
 寿永年間(1182〜1184)源平合戦の際、社殿が炎上したが、文治2年(1186)になり、河野通俊が社頭を改造し、神領も旧の如く寄進した。
 南北朝時代代千町原大合戦の時、再び炎上し、宝器等も消失した。
 延元2年3月(1337)征南将軍宮満良親王(後醍醐天皇皇子)御願あって御太刀を添え奉幣の式が執り行われた。
 天正13年8月(1585)小早川隆景が耒攻の時、その陣営となり、越智、櫛部勢等との決戦があったため、社頭は残らず炎上し、神宝も悉く消失した。
 延文4年(1359)6月の旱魃の際、神主藤原松麿に周布・桑村両郡の雨乞を命じられた記録もある。
 社号も何度か変更があったようである。史書に、周敷宮内大明神、津宮周敷大明神、三島新宮、宮内大明神と記されているのを見るが、寛文年間(1661〜1672)に今の宮内神社と改められたことは棟札等により立証されている。
 松山藩との関係は城主が神領の寄進、社殿の再建、社殿の修治の他、歴代城主の社参、金穀の寄進等があり、大層深いものがあったようである。〔寛永15年9月(1638)、寛文13年5月(1673)、宝永3年5月(1706)、享保16年(1722)など〕
 現在の本殿は天保4年(1833)、拝殿は明治初期の建築とのことである。
 氏子は河原津、黒之谷並びに河之内の一部を除き、河北一帯旧三カ村(庄内・三芳・楠)の全域千余戸、旧称六千石の地に亘り、古の津ノ宮、御井両郷の総氏神として崇敬されている。
 なお秋祭りには三体の神輿が三地区に分かれて御巡行する。子ども神輿、獅子舞、祝太鼓なども宮出しに参加し祭りを盛りたてている。

愛媛県神社庁



伊予国INDEXへ        TOPページへ



順悠社