保内八幡神社境内左手に鎮座している。 保内八幡神社の創始は未詳であるが、応永年間(1394〜1427年)に河野六郎通文が再建したという記録がある。往古は「丹生川八幡宮」と号していたが、天正年間(1573〜1591年)兵火にあい社叢ことごとく焼失したが、社祠のみは焼け残ったので世の人が「火中(内)八幡宮」と称え、その後「火」の字を忌み、内を保った意によって文禄元年(1592年)「保内八幡宮」と改めたと伝えられている。 |
由緒 保内八幡神社 当社、勧請年月不詳なれども、中古の造営主(応永年間、河野六郎通之)と伝えられ、当時は、社地広大、三町四方に及び、「丹生川(にゅうがわ)八幡宮」と称えられる。然るに天正十三年、豊臣秀吉四国征伐のとき八幡宮の森に伏兵あることを察知した小早川隆景の軍勢に四方より火を放たれ、社森ことごとく焼失したるも御本殿のみ火中に焼け残り足る故、時の人「火中(ほなか)八幡宮」とも称え居たりしに、のちに文禄元年「保内(ほうない、内を保ちたの意)」と社号を改めらる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
保内八幡神社 応永年間(1394〜1427)に河野六郎通文が当社を再建した記録があるという。 当初は丹生川八幡宮と称したが、天正年間(1573〜1591)兵火にあい、社叢ことごとく焼失した中に社祠のみは焼け残ったので、世の人が火中(内)八幡宮(ほなかはちまんぐう)と称え、その後火の字を忌み、内を保った意によって文禄元年(1592)保内八幡宮と改められたと伝えられている。 愛媛県神社庁 |