従来は四丁四方の境内に美麗を極めた社殿があったと伝えられている。興国3年(1342年)に阿波の細川頼春が当地に侵攻した際に焼失し、その後数回遷座した後、現在地に再建された。 社殿には祭神は口秘とされ、しかも「八神一座」とされている。 |
布都神社 所在 大字石延字大ヶ市 社格 村社 社名 布都神社(鎮座年月不詳) 祭神 布都主神外六神一座、及び秘密祭神 当社は延喜式に載する古社(伊予24社、周桑東予市に3社)の内の一社である。仁寿元年(851)正六位、天安2年(858)9月21日正五位下を授けられる。文武帝から光孝帝(697〜886)の十帝の間に62回の勅願有りと社記にあり、位階を給ること12度と記されている。往時四丁四方の境内に美麗を極めた社殿が建立されていたと云う。興国3年(1342)阿波の将、細川頼春の侵攻により焼失、後、数回遷座し現在位置に小社を建立し祀る。石延字古屋敷の宮田と呼ばれる田に石塔あり、布都神社の本殿跡と伝えられる。 吉岡公民館 吉岡地区生涯教育推進委員会 社頭掲示板 |
布都神社 布都神社の秘密祭神と実盛塚 石延に鎮座する布都神社は「延喜式」に記載される式内社として古代から中世にかけ、その威容をほこり、戦い、五穀豊穣、鎮火等々の祈願が中央権力者によりおこなわれた。祭神は布都主命外七神と秘密祭神が一神とある。この秘密の神様が何なのか、何故秘密なのか、郷土史研究家の興趣をそゝるものである。 その一節を紹介する。鎌倉時代初期、伊予の守護職であった佐々木盛綱の家人に、斎藤実盛の孫で景忠と云う武将がいた。景忠は盛綱の代官として伊予の道前地方の守護職となり任務についた。先祖伝来の土地武蔵国(東京・埼玉)を想い、名を馳せた祖父の遺徳を偲び、供養塔を建立して祀ったのが石延の実盛塚である。景忠はなお祖父実盛を神として、その権力のもとに布都神社に祭ったのであるが、時は源氏の世であり、最后を平家の有力武将として名を揚げた実盛を神として、しかも国選の式内社に祭神したことが知れると自分の身が危険である。したがって秘密の神として祀り世人には、この御神体を明かせば天罰が当たるとして後々の世まで伝えせしめたと云う。関東の武将斎藤実盛の子孫が伊予に移住したとされる説は他にもある。承久の変(承久3年、1221)で敗れた伊予の河野、新居両家は幕府にその領地の大部分を没収された。その地に鎌倉武将が入部したが斎藤家もその一つで吉岡荘を領した。根拠地、武蔵国長井荘を姓にして長井と名乗ったともある。又、戦国時代織田信長に滅ぼされた浅井長政の家臣に、実盛から七代目の子孫で長井実行と云う武将がいたが主家共に敗れた。実行の子長井大三郎実次が、一族を率いて桑村郡風呂の谷(現在の黒谷)に移住した等の説がある。いずれにしてもこの人達が布都神社や実盛塚をお祀りしたと云われ今も黒谷や東予市、越智郡等にその子孫が住むと云う。 吉岡公民館「ふるさと探訪」 |
布都神社 布都(ふつ)神社 延喜式神名帳に記載される式内社で伊予24社周桑地域3社の内の1社である。祭神は布都主命外7神と秘密祭神の計9神である。式内以前の文武帝から光孝帝(697-886年)の10帝の間に62回の勅願有りと社記にある。往時境内は四丁四方と記され興国3年(1342)細川頼春伊予侵攻のとき焼失後数回遷座の後、東門(一ノ鳥井)のあった今の地に建立されたという。 吉岡公民館「吉岡荘をたずねる」 |
布都神社 延喜式所載伊予国二十四社のうち、桑村郡三座並称の一社である。文徳天皇仁寿元年(851年)正月に正六位上、清和天皇天安2年(858年)9月22日従五位下を授けられた(三代実録)。 『伊予温故録』によると、貞観元年(859年)勅宣によって社殿を再建し、『延喜式』にも登載され、勅使の奉幣もあったが、興国3年(1342年)細川頼春が伊予に進攻して千町が原で戦った時に当社に放火し、以来宮地位田も失われ社運は衰微した。 旧村社。 愛媛県神社庁 |