仁徳天皇(大鸛鷯尊)の崩御の時に民がその徳を慕って神社を造営したのが創始と云われる。 鎮座する佐々久山は「如龍蛇幡中野首南尾北」とあるように龍神のイメージも重なつており、旧社地は龍の首に当たる部分に位置している。 もと山の西南山麓の南尾崎(地名)にあつたが、享保12年(1727)5月15日現在地に奉遷した。 近世の享保ころまでは「南尾崎」の地にあった。そこはこの丘陵の南東に当たり、今は芋畑となっているが、古木の太い根が二、三あって、その名残を留めている。 |
佐々久神社 所在 大字安用52番地 社名 佐々久神社(鎮座年月不詳) 祭神 大鷦鷯尊(おおささぎのみこと) (仁徳天皇)外一神 当社は延喜式に載する社で布都神社、周敷神社にならぶ古社である。仁徳天皇(大鷦鷯尊)崩御のとき、万民はその徳をしたいて神社を建てこれを祭る。「おおささぎのみこと」の音韻に合せ佐々久の地名を社名が生じたと云われる。元は山の南端に有ったが、天授5年賛岐の将細川頼之が侵攻、河野道尭と佐々久原で合戦した。細川方は社殿等すべてに放火焼失した。後、旧地に小社を再建したが、享保12年5月15日に現在地に移し今に至る。元禄14年6月13日より17日間藩命により祈雨祭をおこない瑞雨を得て穀物豊作となる。後、各地より祈雨祈晴五穀成就の祈願依頼あり尊崇甚だ厚かったと伝わる。 社頭掲示板 |
佐々久神社 佐々久山遺跡群 佐々久山は南北約800mの和泉砂岩からなる丘陵である。丘陵には南端から北端まで弥生時代から古墳時代の遺跡が多数遺存し道前平野最大の遺跡群である。南端には土壙墓群、中央部には土壙墓や、箱型石棺が有り、神社前の最高部には、弥生中期の甕棺墓群がある。ここからはすでに子供用合せ甕棺が出土した。 これに続く北部にも甕棺墓や、北端には横穴式石室の古墳が存在したがすでに破壊されて存在しない。この古墳からの出土物には須恵器、鉄器、玉類等である。 又丘の北端部には伊予の中世に君臨した河野道尭の墓があり、又河野氏と共に戦った宇和の豪族、西園寺公俊の墓が中央部東の山すそにある。この墓石は緑泥片岩の板状のもので、石棺の蓋石を利用したものと云われる。 社頭掲示板 |
佐々久神社 延喜式神社の一つに数えられている佐々久神社は、五穀豊穣の神として村人から尊ばれてきた。 当初は、南端に社殿があつたが天授5年(1379)細川頼之が阿讃土の兵4万をもって来攻のとき、伊予の守護職、河野通尭はこの地に陣をしき坑戦したが敗死、頼之は当社に放火し、社殿、神器すべて焼失した。 後に跡地へ小社を建立したが、亨保12年(1727)5月に現在地へ遷座したと伝えられる。 また、元禄14年(1701)の旱魃時に藩命により17日間祈雨祭を行ない、瑞雨を得たので米の寄進があった。以後祈雨、祈晴、五穀豊穣の祈願が度々行なわれ神徳を得たと伝えられる。 当社の祭神は、おおささぎの尊、神八井耳命の二つの神である。 おおささぎの尊は、巨大な古墳で知られる仁徳天皇で、民のかまどに煙がたつのを見て、国が富んだことを喜ばれたと云われ、善政をもって知られる天皇であり、崩御されたとき村の人がその徳をたゝえて祭ったのが神社の始まりと伝えられる。 また、佐々久の社名は「おおささぎ」の語韻から名付けられたと記されている。神八井耳命は伊予の国造りをした神さまである。 この神社に次のような古歌がある。「風さわぐ佐々久の神の端籠にぬさと手向くる霧のふるらん」 この歌が天気を左右することを表現していると思う。 吉岡公民館「ふるさと探訪」 |
佐々久神社 佐々久神社と古墳群 佐々久山中央にある佐々久神社は、周桑地域にある延喜式神社3座の内の1つで祭神は大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、神八井耳命(かみやいみみのみこと)。古来山の南端に存在したが天授5年(1379年)河野、細川の戦いで焼失、跡に小社を建立。享保12年(1727年)現在地に移した。 古来から祈雨、祈晴、五穀豊穣等種々の祈願が行われ神徳を得たと云う。又、山の南端から北端まで多種多様の古墳があり県下でも有数の大古墳群である(弥生から古墳時代まで) 吉岡公民館「吉岡荘をたずねる」 |
佐々久神社 延喜式内神社である。往古は山の南端に鎮座してあったが、享保12年に中央に奉遷する。 元禄14年の夏の旱魃には藩命に依り一七日間祈雨祭を執行し、瑞雨で穀物が豊かに稔ったため、米八石の寄進があり、その後も藩はもとより各郡司より祈雨祈晴五穀成就の祈願があって神徳顕著である。 愛媛県神社庁 |