石見天豊足柄姫命神社
あめのとよたらしからひめのみことじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】石見天豊足柄姫命神社 石見国 那賀郡鎮座

   【現社名】石見天豊足柄姫命神社
   【住所】島根県 島根県浜田市殿町77
       北緯34度54分2秒、東経132度4分43秒
   【祭神】天豊足柄姫命 (配祀)豊受姫命
   【例祭】5月 9日 春季大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】貞観16年(874)9月8日従五位下
       文明18年(1486)社殿改築
       元和6年(1620)吉田重治が城郭内に祀
       慶安2年(1649)松平周防守康映寄進
       文政元年(1818)6月造営
       明治6年5月県社
       明治8年7月兼郷社
       明治40年4月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は石を祀る
   【祭祀】江戸時代は「石神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿

   【境内社】亀山神社

社後に大石があり、本来この石を石神として祀り、その後に神殿を建築したものと思われる。
御祭神は天豊足柄姫命。石見国を拓いて、衣食の道を授けたとされる神。邑智郡邑南町八色石の龍岩神社に、天豊足柄姫命の伝説が残されている。


由緒

石神社記 浜田県権令正六位佐藤信寛撰
石神社祀 石見天豊足柄姫命也世伝神化石事其説凶女誕不可信蓋神創闢石見国有功徳於民故民祠祀之也観其列在式内當時祠宇之壮祀典隆可知焉中古呂降禍乱相踵頽敗而不修者数百年王政維新廃藩置縣信寛承之地方奉朝廷敬神之旨原石神之所由詳其可興復於是新作祠宇挙祀典議為縣社欲使縣民永有尊崇也記之以鏡乎石
明治七年一月
同縣貫属 堀松陰敬書

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



石見天豊足柄姫命神社

碑文の解説
石神はは石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神でありその伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない推測する処では神は石見国をお開きになって民に功徳を与えられたので民はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りしたものであった。その位式内にのっているのを観ると当時の御殿がいかに大きくしかもお祭りが厳粛で栄えたことを知る中古以来禍乱が相続いてお祭りも出来ず廃れたことが数百年。明治の世になつて藩を廃し県が置かれ信寛この地方を治める事になって朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のある処となってその後復興に萌え茲に新しく御殿を造つてお祭りをし県社とすることを議り県民をして末永く尊崇するようにしむけた。
明治7年1月
浜田県権令正六位
佐藤信寛

社頭掲示板



浜田城主歴代碑と亀山神社

「世ニ功烈アリ民ニ徳沢アル人ノ霊ハ宜ク祭祀ヲ挙テ千歳ト雖モ奉セサラシムヘク・・・」の一文は、歴代碑建立にあたって配布された趣意書の書き出しである。碑建立の意義をよく説いている。即ち、松平周防守康福の百年忌(実は92年)、右近将監斉厚の五十年忌にあたる明治21年(1888)5月に藤井宗雄・篠田貞臣ら旧浜田領内の有志42名で主唱者となり浄財を募り、四家十八代の城主名を碑に刻み、拝殿等を整備する事業を起こした。
 当初は建立場所を古城山とし、8月31日に落成する計画であった。しかし諸般の事情のためか事業は遅れ、明治25年6月となり、場所も石神社境内の一隅に変更になった。碑の総高約4.3m、三層の台石の上に約2.3mの碑が建っていて、周囲には玉垣がめぐらされていた。また右近将監家の子孫である松平武修公が奉献した一対の灯籠が残っている。また拝殿の前には二円以上の寄付者の芳名を刻んだ碑も建っているが剥落がひどくその半数近くが不明となっている。
 現在、この亀山神社は石神社の境内社として護持され、一時中断した時もあったが毎年9月に例祭が執行され、歴代藩主の遺徳をしのんでいる。

社頭掲示板



石見国INDEXへ        TOPページへ



順悠社