大麻山(599m)の山頂附近に鎮座。 中世以降修験道が盛んとなり、藏王権現・熊野権現・走湯権現・山王権現・白山権現の五権現を祀つていた。 神宮寺として尊勝寺があり、西の高野山と呼ばれていたが、天保7年(1836)、長雨による地すべりのため、尊勝寺、大麻山神社ともに倒壊した。 明治5年の浜田地震で被災し、廃仏毀釈の時代であったことも影響して尊勝寺は再建されることなく廃寺となった。 |
大麻山神社 大麻山縁起(式内社大麻山神社及び尊勝寺の起源) 一、大麻山神社は仁和4年(888)11月3日阿波国板野の権現大麻彦命の大麻が懸かったので山号を大麻山と改め、これらの事を朝廷(宇多天皇)に奏聞し、勅許を得て、寛平元年(889)2月10日、徳島県板野郡大麻町の大麻彦神社主祭神大麻彦命、配祀猿田彦命及び徳島市二軒屋町、忌部神社祭神天日鷲命並びに蔵王権現(少彦名命)を勧請し社殿を建立した。 安和2年(869)熊野権現(素盞鳴命)走湯権現(伊豆山神)山王権現(大山咋神)白山権現(菊理媛神)を夫々勧請して五社権現となり大麻山神社を権現さんと呼ぶようになった。 「注」天日鷲命は忌部族の祖。大麻彦命は太玉命のことで共に殖産を行い、大麻、楮を植え産業を興した。大麻山神社は、式内社と称しているが、これは、延長5年(927)編纂完成の延喜式神名帳に登載する官社のことで毎年祈年祭に当たり、神祇官及び国司よりの奉幣に預かったもので、他の一般の神社に比し特別の待遇を受けた。 二、大麻山は天平(729−49)貞観(859−77)年中双子山と称していた。当時異僧が来て開き住んで、尊勝陀羅尼を称え里人を教化した。人呼んでこの住居を尊勝さんと言った。 天暦3年(949)開山を山叟として寺坊を建立し尊勝寺と号した。真言宗。本尊は十一面観音となった。 古来西の高野山とよばれた大麻山は、その東南、両山腹を神社、仏閣が囲堯していたことは今日、尚残っている遺跡によって伺うことが出来る。大永3年(1523)の尼子、大内戦で悉く焼失。又、天文3年(1534)猛火が寺家より起こり焼失。三度、再建したものを天正20年(1592)権大僧都良海法印が『大麻山諸伽藍宮立坊中絵図』(県指定文化財)に描いており、この絵図に古文書を照合して当時の殷盛を伺い知ることができるが、天保7年(1836)長雨による大山崩れにて崩壊した。 天保15年より(現社務所地)等に、再建されたが、明治5年浜田沖地震により再度崩壊。更に神仏分離によって、同19年治統法印は高野山に帰り、その後社殿を再建して今日に至っている。(旧郷社)尚、大麻山神社は古来より本地垂迹説による両部神道の宮として尊勝寺別当が社職を兼ねた。 以上、概略ながら当社の御事暦である。 一、大麻山は、標高599m、日本海よりそそり立ち山頂よりの眺めは、島根半島・三瓶山・中国山地の峰々・須佐の高山・萩沖の見島・日本海と絶景である。 一、大麻山神社庭園は、旧尊勝寺書院北庭で、面積は680坪余、北部の山畔を利用した枯山水で大きい築山を三尊風に作り、巨石で石組群を構成し、中央部に三尊石組、平坦部護岸石組、書院前飛石が大ぶりに打たれ、礼拝石のような意匠となっている。 彦根の楽楽園と共通したところがある。 作庭期も、江戸時代初期〜中期頃の作と思われる。晴れた日には、日本海が望め山頂にある日本有数の名園である。 後記 大麻山神社は、その縁起に記述されている如く、一千一百余年の長き歴史を経て、今日に至っております。これは、我々の祖先が神祇を崇め祭祀を重んじ、天地自然の恵みへの感謝を日々の生活の中で、誠心を捧げて、実践されたことによるものであります。 私達は、これら先人達の努力に感謝し、明き、浄き、直き、正しき誠の心をもってお祭りを行い、日々の生活の中で結んできた神と人とのつながりを深め、心の故郷となる事を願うものであり、栞を再編するにあたり、心新たにするものであります。 平成7年12月吉日 宮司敬白 社頭掲示板 |
大麻山神社 大麻山神社の由来 当山は天平年中(721−81)双子山と呼んでいた。仁和4年(886)御神託により大麻山と改め、朝廷に奉聞す。寛平元年(889)阿波国(徳島県)板野郡大麻山鎮座の大神を勧請し、宇多天皇の勅許により社殿を建立す。 御祭神 天日鷲命・猿田彦命・大麻彦命(太玉命)。蔵王權現・熊野權現・走湯權現・山王権現・白山權現 いつのほどにか、五社権現と呼ばれるようになった。 社頭掲示板 |
遺跡大麻山尊勝寺庫裏跡 真言宗大麻山尊勝寺は、西の「高野山」とも呼ばれて、きわめて崇敬の厚い霊地として知られていた。寺の開基は天暦3(949)年である。大麻山神社の勧請もこの頃で、尊勝寺は神仏習合の神宮寺であった。 天保7(1836)年、長雨による地すべりのため、尊勝寺、大麻山神社ともに崩壊した。尊勝寺は庫裏のみ現在の社務所敷地に、神社は現在地にそれぞれ再建された。さらに、明治5(1872)年の浜田地震で被災し、尊勝寺は廃仏毀釈の時代であったことも影響して、ついに再建されることなく廃寺となった。 この駐車場附近に残る平らに削られた石は、尊勝寺庫裏の礎石の一部で、平成6年駐車場整備の時に発掘された。礎石の大きさ、石垣の雄大さから往時を偲ぶことができる。 三隅町教育委員会 社頭掲示板 |