多鳩神社
たばとじんじゃ 所在地 社名

















   【現社名】多鳩神社
   【住所】島根県江津市二宮町神主イ-107
       北緯34度58分11秒、東経132度12分5秒
   【祭神】積羽八重事代主大神
   【例祭】10月20-21日 例祭
   【社格】旧県社 石見国二宮
   【由緒】天武天皇代(673〜686)事代主神を祭神として社を建てた
       貞観3年(861)大和国高市神社を多鳩山古瀬谷に勧請と伝
       寛平3年(891)2月「正一位」
       文安年中(1444−48)現在地に遷座
       明治6年5月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】もと神主村多鳩山に鎮座
        文安年中(1444−48)現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「二宮明神」と称していた
   【社殿】本殿大社造
       拝殿・祝詞殿・幣殿・随神門

   【境内社】大元神社
   【別当】大宝坊・松本坊・小林坊・東坊・西坊

はじめ多鳩山の山上古瀬谷に鎮座せられ北西に面し、あたかも日本海の中心を御守護ありて、御神威は沖を航海中の船舶をしばしば停止せしめたと伝う。
かっては別当寺に大宝坊・松本坊・小林坊・東坊・西坊の五坊が甍を並べていた。
この多鳩神社は、八咫烏(ヤタガラス)の伝説がある神社。本殿の軒下から木製の台のようなものがぶら下がり、神饌台と呼ばれている。八咫烏をお招きするために備え付けられたものという。


由緒

積羽八重事代主神(えびすさん)は神代の昔、石見の國、開拓の為、当地に留り給ふと伝えらる。
はじめ多鳩山の山上なる古瀬谷に鎮座せられ北西に面し、あたかも日本海の中心を御守護ありて、御神威は沖を航海中の船舶をしばしば停止せしめ給ふと伝ふ。
文安年中、山麓の現社地に奉遷す、寛平3年2月「正一位」を賜り延喜の制、小社に列せらる。
石見の國二宮として朝野の崇敬厚く、都野郷の宗社(現氏神)にして末社二十五社あり、神領六十石二斗三升を領有してゐたが、明治4年本末社領とも上地となり明治6年5月県社に列せらる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



石見王と太宰媛の像

平成13年度中山間地域集落維持活性化緊急対策事業
石見王と太宰媛の像
西暦729年左大臣長屋王は、皇位継承を巡り藤原氏の策謀による無実の罪で一族と生涯を閉じた。二宮村史によれば、孫の石見王は生母太宰媛とこの地に逃れた。
日夜多鳩神社に帰参を祈り、後子孫大いに栄えたという。
この伝承を後世に伝え、顕彰する。
平成14年3月吉日建立
宮の谷自治会

社頭石碑



多鳩神社

石見国二宮
元県社 多鳩神社
一.祭神 積羽八重事代主命
一.由緒
積羽八重事代主命(エビスさん)は神代の昔石見の国開拓のため当地に留り給いその御終焉地と伝えらる。
はじめ多鳩山の山上なる古瀬谷に鎮座せられ北西に面しあたかも日本海の中心を御下瞰御守護ありて御神威は沖を航海中の船舶をしばしば停止せしめ給うと伝う。
文安年中山麓の現社地に奉遷す寛平3年3月「正一位」を賜り延喜の制小社に列せらる石見の国二宮として朝野の崇敬厚く都農郷の宗社(総氏神)にして末社二十五社あり明治4年本末社領とも上地となり明治6年5月県社に列せらる
一.境内社 大元神社 高神神社 住吉神社 八幡宮 若宮神社 稲成神社
一.年中行事
歳旦祭 1月1日  節分祭2月3日  祈年祭(春祭) 3月15日 夏越の大祓6月30日
八朔祭 9月1日 例祭10月21日  新嘗祭(秋祭) 11月23日 百除夜祭大祓12月31日

社頭掲示板



多鳩神社

社殿は大社造りの変形の本殿をはじめ、弊殿・神饌所・拝殿・随神門があります。
多鳩神社には、多くの奉納額がありますが、特に目に付くものが、縦121cm・幅151cmの大額絵馬。五穀成就を祈願したもので、絵馬の筆者は平景隆(邑智郡石見町)の画工、祈願者は浜田藩跡市代官の寺井嘉藤次維尚と記されています。
多鳩神社
境内の社務所玄関前には「ナギ」の木が植えられており、享保年間に地元の叶松助左衛門が航海安全を祈願し植樹奉献したと伝わっています。現在の高さは約15m、胸高周囲約1.72mもなりこの木の2世も育っています。
このほかにも神社を取り巻く自然林は、シイ・タブ・ケヤキ・クス・ツバキ・スギ・ヒノキなど大樹古木で構成されていおり、先に紹介した大額絵馬とともに江津市の指定文化財となっています。
また、石見地方には、一宮(物部神社/大田市)、二宮(多鳩神社/江津市)、三宮(大祭天石門彦神社/浜田市)とがあり、石見二の宮と称された事でこの地を二宮という地名になったというようです。
(文章は、森脇太一・七田真共著「江津のはなし」より一部引用)

江津市観光サイト



多鳩神社

いよいよ、二ノ宮明~號勅許の話に歸るが、時は平安朝の末頃、高倉天皇の嘉應二寅の正月に高階(タカシナ)經仲といふ人が、石見守となり、翌、承安元卯の十二月まで、まる二年。石見に居られた。其の人が多鳩の宮に参って云はれるには、我が先祖石見王の父桑田王は、祖父長屋王と共に無實の罪で、自害なされた。其の時石見王は、生まれた許りの子で、生母大炊王女太宰媛や乳母につれられ、つてをもとめて、難を、此の里(~主)に避け、朝夕歸参を~に祈り、後ゆるされて歸った。其子峯雄が仁明天皇の承和十一年に高階眞人(タカシナノマヒト)の姓を賜はった。此の様に我が祖宗は、此の地此の宮と深い因縁があるから、是非二宮明~號勅許に力を致さう。と誓はれたが、實現せぬ中に常陸介に轉任した。翌承和二辰の春、女御平徳子の方が、中宮にお立になったお悦びに、石見介祝部(はふりべ)成仲が上京して、さきの願いの件を懇懇請した。平相國入道のお詞も添うて、とうとう勅許になった。

二宮村史



石見国INDEXへ        TOPページへ



順悠社