国分寺霹靂神社
こくぶんじかんたけじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】国分寺霹靂神社 石見国 迩摩郡鎮座

   【現社名】国分寺霹靂神社
   【住所】島根県浜田市国分町1905-3
       北緯34度56分36秒、東経132度7分17秒
   【祭神】雷神 (配祀)事代主神 国常立命 心吉神 護国の英霊
   【例祭】11月3日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平14年(742)仁萬村字御門(みかど)に国分寺建立
       大同4年(809)正月霹靂神社を境内に安置
       貞観11年(869)12月従五位上
       元慶3年(879)9月4日正五位下
       明治5年村社
       その後幣帛供進指定神社
       明治41年現在の心吉に社地を変更

   【関係氏族】
   【鎮座地】大同4年(809)正月霹靂神社を国分寺境内に安置
        その後「着」に御遷座
        明治41年現在の心吉に社地を変更

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造
       拝殿

   【境内社】

石見国分寺が当初邇摩郡仁万に創建されたとき国分寺の守護神として鎮斎された。後に国分寺が現在の金蔵寺の地に移されたとき、その東方「着」に遷座。明治41年現在の心吉に社地を変更した。
式社を巡っては寛保・安永のころ激しい論争が行なわれた。論争したのは磯竹村(現大田市五十猛町)国分寺震露神社、湯里村(現温泉津町)霹靂神社、仁萬村(現仁摩町)国分寺霹靂神社、国府村(現浜田市国分町)国分寺霹靂神社の四地区の四社であつた。この論争では、「霹靂神社」であるか「国分寺霹靂神社」であるかは間題でなく、いづれであれ式内社は当方であるという一点が各神社の主張であつた。


由緒

御祭神 雷神 事代主神 国常立命 心吉神 当社は石見国国分寺の鎮祭で往昔現在の迩摩郡仁万町東光寺が代用国分寺として指定された時創建されたものを後世現在の国分・着の地に国分寺が創建されるに至った時共に移されたものであるが次第に周囲の崇敬が厚くなり氏神として祀られる様になった。明治41年9月7日字心吉の地に神社を移した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



国分寺霹靂神社


一、 社名 国分寺霹靂神社
一、 祭神 雷神(いかづちのかみ)
一、 合祀 大元神 恵美須神 心吉神
一、 創立 石見国分寺創立の時
由緒
国分寺霹靂神社は、石見国分寺が当初邇摩郡仁万に創建されたとき国分寺の守護神として鎮斎された歴史上重要な神社である。 後に国分寺が現在の金蔵寺の地に移されたとき、その東方「着」を社地を定め、ここに祀られたのが やがて国分地区の氏神として崇敬されるにいたったのである。明治5年村社に列格、幣帛供進指定神社となり、明治41年現在の心吉に社地を変更したものである。
現在の社殿は昭和11年に改築され、神殿の様式は流造である。

社頭掲示板



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