水上神社
みずかみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】水上神社 石見国 迩摩郡鎮座

   【現社名】水上神社
   【住所】島根県大田市温泉津町湯里281
       北緯35度5分25秒、東経132度23分43秒
   【祭神】上津綿津美神 上筒男神
   【例祭】4月22日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】仁和元年(885)8月11日鎮座
       天文17年(1549)8月西田村八幡宮と称
       天正17年(1589)12月西田村八幡宮と称
       宝永6年(1709)水上神社と称

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【公式HP】 水上神社
   【社殿】本殿春日造
       幣殿・拝殿・神樂殿

   【境内社】

明治7年の取調に対して、式内社を主張する神社は、みな由緒不詳の場合でも、式内社なりと書き立てているが、水上神社だけは、不詳とのみで式内社については一言も書いていない。しかも祭神は八幡三神とした上、勧請年月日を「天文17年8月15日、西田甲斐守長識勧請ス」と書き出している。


水上神社

当神社は延喜式内社であり、御祭神は上津綿津美神 と上筒男神二柱の海を司る神様が奉斎されております。
何故海辺でもないこの地にお鎮りなされたのか。伝説によると神代の昔二柱の大神様を始め大勢日本海に船を乗り入れられましたが暴風雨で海上は大荒れとなり、漂着の地が日祖の殿島であったと伝えられております。
それ以来暫くの間日祖から小浜の浜辺などで製塩や稲作の技法を教えられ、さらに奥地に進まれ上村、飯原を通って、この西田の地に辿り着かれそこに聳える、水上山の姿が気に入られここにお鎮りになりました。
今日の「よずくはで」はその名残りであり西田や周辺の人々に魚網を干すやり方を取り入れた稲はでの作り方を指導されました。
秋の稲の収穫期になると「秋の風物詩」として「よずくの里」を訪ねる人は今も絶えません。

社頭掲示板



水上神社

■延喜式内社
水上神社は延喜式内社です。延喜式とは平安時代第60代の醍醐天皇の御代の延喜5(905)年〜延長5(927)年の22年間をかけて編纂された平安時代初期の国家の法制書で、延長5年左大臣藤原忠平・大納言藤原清貫等によって奉進され967年に施行されました。全50巻のうち9巻と10巻は全国3132座(神社の数は2961社)記したいわゆる『延喜式神名帳』で、平安当時、格式があり重要とされた神社が記載されています。水上神社は石見の国34座の一つとして名を連ねています。
■水上神社文書
 水上神社文書は、大田市温泉津町西田に鎮座する水上神社とその神主を務めた宮能家に伝来した古文書群で、総点数は115点にも及びます。時代は近世から近代にかけてのもので、近世文書の多くは吉田家からの「神道裁許状」(吉田家より神主に出された免許状)とそれに関連する書状等で、寛永年号の比較的古いものがみられます。近代文書では「神社明細帳」(近代に作成された神社の台帳)の作成や神社と県、郡の諸役所とのやりとりに関する史料が多く残されています。
■毛利輝元袖判下文
袖判下文(そではんくだしぶみ)とは、文書様式のひとつで、文書の袖(右側空白)に花押(かおう)を書き、上位者の命令等を伝達したものです。この下文は、元亀3(1572)年に毛利輝元(もうりてるもと)が水上神社の祭祀権を神主の宮能氏に対し保障したものです。
 同様の文書が湯里の八幡宮の神主であった竹内家へ出されており、温泉津の西楽寺(文書では前身の正恩庵)へは諸役免除の文書が出されています。これらの史料は、毛利氏が西田、湯里、温泉津周辺をその支配下に置いていたことを示すもので、毛利氏の銀山支配の一端がうかがえる史料です。
 また、この文書の出された前年の元亀2年には、輝元の祖父の毛利元就(もとなり)が没しており、石見銀山の支配をめぐって、毛利家の代替わりに合わせて出された文書である可能性も考えられる興味深い史料です。
■水上神社造営記
水上神社造営記  宝暦11(1761)年の水上神社の造営に関する記録で、序文、造営の決算、奉加帳の三部から構成されています。序文において古い社殿は、神社の額の裏に「元亀二天十二月二日」とあったことから、「将軍は足利義昭公(あしかがよしあきこう)、国守ハ毛利中納言輝元卿」の元亀年間の造営であったことが記されています。
 また、造営費の総額は、銀1貫890匁1分1厘、当時の米価から換算すると、現代の金額で約171万円となります。ただし、賃金等から換算した場合は、米価の数倍になると推測されるため、水上神社の造営は、数百万〜1000蔓延規模の大規模な事業であったと考えられます。
 このほか、現存する本殿の3種の蟇股(かえるまた)(蛙が股を広げたような形をした建築部材)と蟇股の裏に記された寄進者の名前が、造営記の記載と一致しており、棟札とともに社殿の歴史を裏付ける貴重な史料です。

公式HP



水上神社

然るに伊弉諾~日向の橋の小戸に滌し玉ふ時に坐せる~數多と御子等と共に、御舟にて温泉津日祖浦殿島に上陸し給ひ、小高き所に登り、伊弉諾~其地に鎭座し給ふ。故に地名日祖といふ。祓戸になる~たちとその地にて別れ給ひしにより、其地を今に~別坂といふ。祓戸に生る~たちは、それより小濱村に移り給ふ。時に日暮に及びければ、假りに宿り給ふ。その地を今に假り屋、又假り谷といふ家あり。それより飯原村に至り、饗上げ給ふ故に飯原と云ふ。同村のうちにてこの里に鎭座しては如何といふに、イヤイヤと宣ふ。その地を今にイヤといふ。夫より西田村に至り水上山に二~鎭座し給ふ。これすなはち水上~社なり。

式内社調査報告



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