石見銀山代官所跡の右手50mほどにある。 もとは石見国東海岸にある馬路(まじ)の高山に鎮座。航海安全と海防の神として信仰をあつめていたが、永享6年(1434)に大内氏が銀山を手に入れると彼の守護神として大森の香語山に遷し、天正5年(1577)に毛利氏が銀山を手に入れるや現在鎮座の地に遷した。 |
由緒 御参拝のしおり 御祭神大物主神又は、大黒様の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、詳しくは倭大物主櫛瓱魂命と申し上げます。この神様は神代の昔、少彦名命と協力して、この国土を拓き、農・工・商すべての産業開発・方除・治病・禁厭・造酒・製薬・交通・航海・縁結び等、世の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神であらせられます。 当神社の社伝によりますと、もとは石見国東海岸にある馬路(まじ)の高山に鎮座。航海安全と海防の神として信仰をあつめていましたが、永享6年(1434)に大内氏が銀山を手に入れると彼の守護神として大森の香語山に遷し、天正5年(1577)に毛利氏が銀山を手に入れるや現在鎮座の地に遷して城上神社大森大明神と申し上げていました。大森の名は此の地に一本の大樹が森をなす如く大きく繁茂していて、この大樹を中心として大いに信仰をあつめたもので、この名が付けられたといわれ、一方大森町という地名もここから称えられたものと伝えられています。おしくも寛政12年(1800)の大森町の大火で社殿と共に類焼してなくなりました。 年に一回行われます秋の大祭の御幸祭の御幸地は1Km程離れた長砂(たかさご)という飛地境地内でありまして、ここは少彦名命をまつる天真神社長砂大明神がありまして、大物主大神が世の幸福を増進するために少彦名命と御相談される御幸祭とされて現在も続けられています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
城上神社 城上神社要略 御祭神 大物主大神 御祭例 10月19日 御鎮座地 島根県大田市大森町イ一477 城上神社の縁起 ここ城上神社に鎮まります御祭神大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は、世に大国主神(おおくにぬしのかみ)又は大黒様(だいこくさま)の御名で広く知られている国土開拓の神様でありまして、くわしくは倭大物主櫛瓱魂命(やまとおおものぬしくしみがたまのみこと)と、申しあげます。この神様は神代の昔、少彦名命(すくなひこなのみこと)と協力して、この国土を拓き、農・工・商すべての産業開発・方除(ほうよけ)……予防してわざわいをのぞくこと…治病・禁厭(まじない)・造酒・製薬・交通・航海・縁結び等世の幸福を増進することを計られた入間生活の守護神であらせられます。 当神社の社伝によりますと、もとは石見国東海岸にある馬路の高山(もと打歌の山・志加美山・城上山など云)に鎮座。航海安全と海防の神として信仰をあつめていましたが、永享6年(1434)に大内氏が銀山を手に入れると彼の守護神として大森の香語山(今の愛宕山(あたごやま)に遷し、天正5年(1577)に毛利氏が銀山を手に入れるや現在鎮座の地に遷して城上神社大森大明神と申しあげていました。大森の名は此の地に一本の大樹が森をなす如く大きく繁茂して居て、この大樹を中心として大いに信仰をあつめたもので、この名が付けられたと言われ、一方大森町といふ地名もここから称えられたものと伝えられています。おしくも寛政12年(1800)の大森町の大火で社殿と共に類焼してなくなりました。 年に一回行われます秋の大祭の御幸祭の御幸地は1Km程離れた長砂(たかさご)といふ飛地境地内でありまして、ここには少彦名命(すくなひこなのみこと)をまっる天真神社長砂大明神(てんしんじんじゃたかさごだいみょうじん)がありまして、大物主大神が世の幸福を増進するために少彦名命と御相談される御幸祭であるとされて現在もこの御幸祭は続けられています。 由来の概要 ●鎮坐 年月日不詳 ●承和(しようわ)4年正月に初めて官社に預る(837) ●貞観(じようかん)5年11月に官幣に預る(863) ●延喜(えんぎ)年中延喜式勅撰(えんぎしきちよくせん)に邇摩郡の筆頭に神名帳に記載されて、国家の特別なる奉幣にあずかつた。当時神階は正三位(901〜922) ●永享(えいきよう)6年(1434)に大内氏銀山を手に入れるや、馬路の高山より大森の香語山へ遷し大内氏の守護神とし、神領を寄付して維持をはかつた。 ●天正(てんしよう)5年(1577)毛利氏がこれに変つて現在地に遷し、神領を加増した。 ●秀吉朝鮮出兵(慶長の役)(1597)の軍役の命令をこばんだため、神領全部取上げられた。 ●慶長8年(1603)10月当国奉行大久保石見守当村民有地高六十石を神領として永世に寄付した。 ●寛政12年(1800)大森町大火により類焼し、大樹・拝殿・本殿・宝蔵庫等焼失し、文書はもとより貴重な宝物など、ほとんど焼失した。 ●文化12年(1815)現在の社殿を造営す。 ●安政5年(1858)正一位の神階を宣下された。 ●明治6年(1875)県社として指定された。 ●昭和50年7月1日島根県特別神社に指定された。 文化財としての建築物・宝物 拝殿(県文化財指定) 文化九年の造営で桁行五間梁間六間の特殊な造りで、一層の屋根を入母屋風につくり、その前側へ寄せて入母屋の二層を平入りにのせてあり、従って一層背部は二階がなく、二層屋根の棟と直角に棟がのびている。正面向拝は、いったん唐破風をつけた上に、さらに千鳥破風をのせて二重構えで、複雑ではあるが、調和がとれて、屋根の古鉄瓦の色と共に美しさをあらわしている。 内部は一つの建物を、幣殿、神楽殿、直会殿、神興殿、神供殿、拝殿と六殿に区切られている。 拝殿の格天井中央には、4mに5mの大枡をつくり、ここに山瓶山麓志学佳人梶谷円隣斉守休が採色で勇壮な竜を描いている。この絵の中央直下で拍手すると美しい鈴の音のような反響音を聞くことが出来る。これを、鳴き竜、の天井と言われている。(市文化財指定)これをとりまく天井の紋は、造営のため寄付した代官所役人、町の組頭、庄屋、講中の家紋である。 神宝 寛政の大火で類焼したが、その内焼失をまぬがれ保存されている主なもの ●鎧一、白糸おどし、毛利元就が天正5年当社造営の寄付と共に奉納したもの。 ●能面三面、大久保石見守愛用の「増女」「白式尉」「黒式尉」(市文化財指定) 及能面箱一箱 ●のしめ代官川崎平右衛門が将軍より拝領したもの(市文化財指定) 銘木 相生の松(市天然記念物指定) 黒松(男松)と赤松(女松)の相生の大樹で、樹令推定250年、一名夫婦松ともいふ。 由緒書 |
城上神社 その昔、延喜年間(1000年位前)城上神社が仁摩町の城上山に有った時、海防の神として崇められ、崇敬者から珍しい貝の化石のある石と、海亀の姿の石を奉納して、海の安全を祈りました。 永享年間神社を愛宕山へ遷座した時はこの石は運ばれましたが、その後天正年代現在地に遷座した時には亀石を運ぶのを忘れてしまいました。 亀石は「自分の甲(亀甲)は城上神社も紋章だ、行かなければ」と山を下りましたが、自らの重さに山の麓の川底に沈んでしまいました。 それからは、その川辺を通ると川の中から不思議な音が聞こえるようになりました。 静かな夜だと丁度小豆を研ぐような音に聞こえました。物好きな人が道端まで上げてみたら、亀の形をした石でした。それからは、小豆石の名で大正年代まで道端に置かれていました。 この石がある夜、敬神家である田中某氏の夢の中に出てきて、事の次第を打ち明けて、城上神社の境内へ上げて欲しいと頼みました。田中某氏は早々その事を宮司に告げてここに落ち着く事となりました。(城上神社伝記より) 社頭掲示板 |
極彩色の「鳴き龍」 拝殿の鏡天井にある極彩色の「鳴き龍」は迫力満点。 【島根県指定有形文化財(建造物)】 祭神は、大物主命(おおものぬしのみこと)〜〔大国主命〕(おおくにぬしのみこと)〜で、大久保長安にゆかりの遺物「能面」 3 面、「熨斗目」 1 領を伝えています。重層式拝殿で入母屋造り(いりもやづくり)瓦葺きという、江戸の亀井戸天満宮様式の建物です。 永享 6 年( 1434 年)、大内氏によって仁摩町馬路(にまちょうまじ)の高山から大森町愛宕山(あたごさん)に遷座され、天正 5 年( 1577 年)に毛利(もうり)氏によって現在位置に遷座、造営されましたが、寛政の大火により類焼し、文化 9 年( 1812 年) 4 月に現在の拝殿が再建されました。 拝殿の鏡天井に描かれた極彩色の天井絵「鳴き竜」は、三瓶山麓の絵師梶谷円林斉守休(かじたにえんりんさいもりやす)の手によるもので、描かれたのは寛政の大火後の文化 15 年( 1818 年)です。 絵の真下に立って手をたたくと、天井がリンリンと鳴り響きます。もともと鳴き竜は、日光東照宮の薬師堂の天上に描かれた絵のことで、竜の頭の下のところで手をたたくと、音が共鳴して、竜が鳴いているように聞こえてくるところから、そう呼ばれるようになったそうです。 また、この鏡天井の左右に格天井があり、各升目に紋づくしが描かれています。このような紋づくしは清水寺にも見られます。 大田市観光協会 |
拝殿 県指定有形文化財(建造物) 城上神社拝殿一棟 拝殿正面は10.22m、側面は2.88m。屋根は重層式の入母屋造り瓦算きで、江戸の亀戸天満宮を手本にしたものと伝えています。 内部は、前半分が拝殿、後半分を五室に仕切り、中通りに幣殿を置き、本殿から向かって左側に直会殿と神輿殿、右側に神楽殿の神供舎を配しています。 拝殿の鏡天井には、三瓶山近くの絵師であった梶谷円隣斎守休が極彩色で「鳴き龍」を描いています。 この絵天井は拍手で共鳴することもあって、大田市指定文化財となっています。 祭神は大物主命(大国主命)を祀り、銀山と大森町の両方の氏神でもあります。 平安時代の儀式や制度を記した「延喜式」にもあり、社伝によれば永享6年(1434)大内氏によって邇摩郡馬路村(大田市仁摩町馬路)の高山から、現在の社殿の東側にある愛宕山に遷座され、天正5年(1577)に毛利氏によって現在地に遷座されたと伝えられています。寛政12年(1800)の大火で焼失しましたが、文化9年(1812)4月に現在の社殿が再建されました。 社頭掲示板 |