社伝には、桓武御宇延暦11年(792)9月15日伊勢安濃郡八幡を遷すとある。 現在の野井神社は、明治41年7月旧村社野井神社と明治6年以来の郷社、入山八幡宮を合併し、郷社野井神社と称し、さらに明治41年10月、字用田(もちだ)鎮座の亀山八幡宮を合併し、さらに明治44年1月、山王神社(祭神大山祇神)と王子神社(天照皇大神)を合祀した。 この郷社八幡宮を式内社とする説もあった。 |
由緒 野井神社「由緒」 社伝には、桓武御宇延暦11年(792)9月15日伊勢安濃郡八幡を遷す、と「頭註抄」を引用しており、貞観年間授位も記されておる。これはこれとして次の「此地に天然の泉ありて、旱天にも渇せず、霖雨にも濁らずして清水湧出す。此泉を根拠地として、原始林の切り倒しをはじめ、耕地を開墾す。依て此地を入りと云い、社を切り入りの宮と称す。此地方で最初に開けた処にして、国造の居館の地か、石見国造はその後邑智郡吾郷村に移れりという。その地にある天津神社は当社を遷したるものと云う。吾郷は安濃郡の義にて近くに野井の地名もあり云々」とあるが、現在の野井神社は、明治41年7月旧村社野井神社と明治6年以来の郷社、入山八幡宮を合併し、郷社野井神社と称し、さらに明治41年10月、字用田(もちだ)鎮座の亀山八幡宮を合併し、さらに明治44年1月、山王神社(祭神大山祇神)と王子神社(天照皇大神)を合祀した。このため由緒の重なった点もあると思われる。この点社伝に「元亀年間、源朝臣小笠原与次郎長旌、同上野介長実等大いに崇敬し、社殿の再建をなす。慶長5年(1600)毛利輝元当国の守護たりし時社殿再建」等の記録は八幡宮関係のものと思われる。神社周辺に、御供田・天神分・卜定田(うらべた)等の地名が残っている。明治41年11月神饌幣帛供進の神社に指定された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
野井神社の石垣 石垣の上端を飛び出して大きな富士山型の石がはめてある、そこに刻まれた文字は 「文政二己卯年八月吉日 奉寄進 石垣願主中田厚菴 石工 備前 徳蔵」 と読める、石垣の石のひとつを飾り石に仕立て、寄進者の名ばかりか石工の名まで刻み込んだものは非常に珍しい。横から見ると上部はわずかに湾曲させてある。 昔の表参道は西側から上がっていた、だからそちらの石段には凝ったしつらえがされている。両側の石垣は袖のように薄くしてありその瑞の断面は上から下まて丸く窪ませてある角石の上面には浮彫りした飾が見える。 石材はこのあたりのものと思われる硬い石でそれを正確に切り合わせて一部の隙もなく積み上げている。はるか備前の国からやってきた石工棟梁の感性と力量がしのばれる。 文政2年は1819年中田厚菴は医師で野井村川南に住まい慶応3年(1867)没。屋号は影田、今はない。 長久町まちづくり委員会 社頭掲示板 |