「むかし池の原の長者の娘の迩幣姫が、美しい若者に誘われ、この池に身を投げた。若者は池に棲む大蛇であったという。姫の着ていた衣が水面から浮きあがるかのように湖水が白く見え、浮布の池の名となった。」という伝説がある。 白鳳13年(684年)に三瓶山で大地震があり、その時に飛んで来た瓶は、今の浮布池(うきぬののいけ)の東側の亀隠れに沈んだという。後流域の人々によって亀隠れの小丘に迩幣姫神社を祀り、後の宝亀5年(774年)に浮布の池の中ノ嶋に移したと伝。 |
邇幣姫神社 所在地 大田市三瓶町池田字浮布池中嶋 祭神 邇瓶姫命 多紀理毘売命 狭依毘売命 多岐都比売命 由緒 白鳳13年(684)10月、大地震により佐比売山(三瓶山の古名)の西崖崩れ落ち、忌部の屋を埋づめて浮布池が生まれた。 この時、三つの瓶が飛び出て、一は川合町に鎮座の石見一宮物部神社地内に、二の瓶はこの池の東部亀隠に沈んだ。 それ以来、浮布池は池田を始め川合、青永、行恒、稲用、延里、静間の集落の水田、数百ヘクタールを潤して日本海に濯いでいる静間川の水源地となった。 流域の人々は、この池を霊池と敬い神徳を讃えて亀隠の小丘、古宮郷に邇幣姫(二瓶姫)神社を創建した。 宝亀5年(774)には現在地の中ノ嶋に移し延喜式内社に列せられた。 降って承応4年(1655)当地方の領主加藤内蔵之助は、藩を再建し神田を寄附して自筆「霊池」の扁額を献納した。天和2年(1662)加藤氏は近江国水口へ転封となり、天領石見銀山領に編入されたが、歴代大森代官の崇敬篤く、しばしば参詣したと伝えられている。 明治5年(1878)2月、石見地方を襲った大地震により本殿を始め幣殿、拝殿などが大破した為、大森大区役所に願出て邇摩、安濃両郡の村々の寄進を受け、明治11年(1878)現在の社殿を再建した。 社は、いつの頃からか市杵島姫命、龍神の二柱の神を合紀して浮布池弁財天社とも称え、五穀豊穣、病害虫退散の社として年四度の祭礼には近郷からの参詣で賑わった。また、旱ばつの年には流域の村々から「池落し」と言って手に手に鍬を携えて集まり、長雨続き洪水等の時には「水留祭」と称えて参詣祈願したという。 浮布池は、初夏の頃、朝タのひと時、中の島より一ノ鳥居沖まで幅2m余りの水面が、あたかも白布を浮かべたように見えるところから名付けたとつたえられている。 麻詞津日能加勢波婦久土母宇岐奴乃遠左良勢流美都仁須女留津喜可計(読人知らず) 君かため浮沼の池の菱つむとわが染めし袖濡れにけるかも(柿本人麿) 社頭掲示板 |