苅田神社
かりたじんじゃ
八幡宮 に合祀
所在地 社名














   【延喜式神名帳】苅田神社 石見国 安濃郡鎮座
   【現社名】八幡宮
   【住所】島根県大田市大田町大田ロ1384
       北緯35度11分30秒、東経132度30分10秒
   【祭神】建御名方命
   【例祭】(八幡宮)10月15日 例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳
       元禄11年(1698)造営
       享保19年(1734)5月造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】(八幡宮)本殿
       

   【境内社】

市内大田町大田の南八幡宮が明治になって合祀した諏訪神社を式内苅田神社に比定する説がある。
元禄11年(1698)の棟札があり、それに「奉造替石見国安濃郡大田村苅田神社、諏訪大明神」の記載があり、式内苅田神社に比定する説がある。
八幡宮の勧請以前に式内社苅田神社があり、建御名方命を祀り大田町全域の総氏神であった。


由緒

島根の名社
鶴岡八幡宮案内
当社御鎮座なる鶴岡山は大田町全民家を俯瞰する一丘山で北方には三瓶川がその麓を流れ、風光明眉の好地位を占めている、嘉禄2年相州鎌倉、鶴岡八幡宮から勧請した由緒によって、当社山も鶴岡山と称したものである。
当社の勧請以前に式内社苅田神社があり、建御名方命を祀り大田町全域の総氏神であった。宇田天皇の御代寛平7年信濃国諏訪大社より奉遷した社で明治43年当社に合併した。その宮跡は諏訪仮屋と称す。当地方では正月歳徳神を祀り、その年の五穀豊穣、家内安全を祈願する仮屋の起源とされている。承久年間松山城小笠原弾正が生国の産土宮であるため厚く崇敬し、社殿を造営、神器を奉納した。
永禄10年毛利家より八幡尊像三体と神領を寄進、更には大森銀山奉行大久保石見守、竹村丹後守代々の代官等当社を厚く崇敬し、社殿の造改築に力を尽くし、神器の数々を奉納した。
境内地には源頼朝公天下泰平祈願のため、六十六国に建立せし其一にて現存する六角堂と鉄塔は全国に稀である。諸国の大名領主の祈願文を経筒に入れ、この鉄塔に奉納せしもので、北は北海道、西は鹿児島に至る諸国より経筒二百数十個現存し、昭和39年経石、経文共に島根県指定有形文化財、なお経筒の一部は東京国立博物館及び島根県立博物館に出陳され、全国に広く知られている。
当社は石見八社八幡宮の筆頭社で産業発展、開運厄除、延命長寿の守護神として古来より一般庶民の厚い崇敬を受けており、明治8年、村社から郷社に、次いで昭和2年県社に昇格、昭和56年9月1日、格式ある神社として島根県神社庁より名誉ある特別神社の指定を授く。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



鉄塔

県指定有形文化財鉄塔 附経堂ほか(太田市太田町)
ここにある六角経堂の中には、鎌倉幕府を開いた源頼朝が寄進し、尼子経久が修復したものと伝えられる鉄塔が納められている。
鉄塔は総高182cmの高さがある。塔身・台座という鋳造品でつくられている。塔身には経文を納めるための差入口がつくほか、「十七」の銘文が見える、また、台座には蓮弁が鋳出されでいる点も注意される。鉄塔をのせた礎石は凝灰岩製で六角形の台座状をしており、その下部に同じ凝灰岩製の円筒が埋置されている。
この石塔内部から、長さ12cm、直径5cm前後の形筒165口とともに、経石懸仏2、飾金具2、鉄製品1、泥塔1、土器1、銭貨667が発見されでいる。
鋏塔の形式は他に例をみないもので、時期を確定することは困難であるが、北部九州を中心に分布する平安時代末期のものに近いとされている。なお、継堂は先年行なわれた修理の際に屋根裏から発見された棟札より、安政3年(1856)の建立と考えられる。
昭和39年(1961)5月26日指定
平成12年(2000)3月 島根県教育委員会
太田市教育委員会

社頭掲示板



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