苅田神社
かりたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】苅田神社 石見国 安濃郡鎮座
          (旧地)苅田神社旧地

   【現社名】苅田神社
   【住所】島根県大田市久手町波根西1942-2,1943-3,2140-2
       北緯35度14分3秒、東経132度30分31秒
   【祭神】苅田比古神 苅田比盗_ 倉稻魂神
       (合祀)国常立神

   【例祭】4月14-15日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】寛平7年(896)鎮座と伝
       万寿3年(1026)大水害で社殿流失
       天正18年(1590)9日造営
       明治5年12月村社
       明治43年10月15日神饌幣帛料供進神社指定
       昭和3年現在地へ遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】寛平7年(896)神谷山の烏帽子端大巌石上に鎮座
        万寿3年(1026)後神谷山の麓に遷
        昭和3年現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神谷明神」「神田明神」と称していた
   【社殿】本殿本殿春日造
       幣殿・拝殿

   【境内社】祖霊殿・幸神社・井戸神社・大神山神社・大年神社・道祖神社

寛平7年(896)、当町鈴見の里、神谷山の烏帽子端(えぼしばな)という大巌石の上に、既に御鎮座になっていたが、万寿3年(1026)未曾有の大水害があり、山は崩れ谷は裂け、波根湖が大氾濫した。本殿・拝殿・楼門・回廊を始め末社等悉く漂流した。その後神谷山の麓に社殿を造営し千年近く鎮座した。然しながら神谷山麓は、名に負う湿潤地帯であり、時代の変遷と共に、氏子の生活圏の中心が、旧山陰道筋から、次第に海岸線へと移っていった。
昭和3年の春、歴史的聖地神谷山麓から、現在地へと遷座した。


由緒

御参拝のしおり
当社は昔から加利多明神という延喜式内の神社であります。苅田の大神は、御神名の示しているとおり、農業畜産を主宰せられ、五穀豊穣の守護神であります。この地方における式内社の中でも物部神社に次ぐ重要な地位にあり、上古から年々国幣が献ぜられました。とりわけ旱魃や長雨等による天候不順の時とか、病虫害発生の甚だしい時に於ては国司・郡領が命じて当社の祭祀を厳重に行わせ、御神護を祈ったと記録されています。更に病魔悪災を刈りとって下さる御霊験があるとして、往古から地方民の格別篤い信仰が集まった神社でもあります。現存の苅田神社々記によれば、第59代宇多天皇の寛平7年、当町鈴見の里、神谷山の烏帽子端(えぼしばな)という大巌石の上に、既に御鎮座になっていたといわれますから、創建の時は更に遠い以前のことでありましょう。その後、万寿3年寅の洪水といわれる、前古未曾有の大水害があり、山は崩れ谷は裂け、波根湖が大氾濫しました。当社の本殿・拝殿・楼門・回廊を始め末社等悉く漂流しましたが、幸い御神体の内二体が、矢代柳の大樹にかかって、それを奉遷することが出来ました。こんどは神谷山の麓に社殿を造営しましたが、これより昭和3年まで、実に壱千年の間の、御鎮座の地となりました。
又当社の御祭神の内に、倉稲魂命さまがおいでになります。この神様は、一般的には正一位稲荷大明神と申して、商売繁盛、福徳開運十種の神様として、庶衆の信仰の厚いところであります。然しながら、この神様も亦、本来、稲作の神様であり、苅田の大神様とは表裏一体をなす御神格であります。
明治40年には、久手町や柳瀬(やなぜ)の里に、それぞれの鎮守さまとして祭っていた両所の大元神社が、政府の指導に基づいて、当神社に合祀されました。御祭神は国常立命と申し、国土創世にお出ましになり、万物万象を生成化育し調和を掌り給う神様であります。この苅田神社が、永い間、神谷山麓に鎮座されたわけでありますが、その間、当神社の御霊験があらたかとて、御神徳を慕った大田、稲用、久利方面の百姓たちが、御神体を持ち出そうとして、神社の争奪に及んだという伝説が残っているのも、誠に面白く意義深いことと申せましょう。然しながら神谷山麓は、名に負う湿潤地帯で、建造物にとってふさわしからぬ所でありまして、且つ時代の変遷と共に、氏子の生活圏の中心が、旧山陰道筋から、次第に海岸線へと移り行くにつれて、早くから神社移転の要望が出て来ました。やがて、それが運動へと盛り上がり、関係筋への陳情を重ねた結果、ようやく認可を頂き、昭和3年の春、歴史的聖地神谷山麓から、現在地へと御動座になりました。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



苅田神社

御由緒
御祭神
苅田比古命 倉稲魂之命
苅田比売命 国常立乃命
神社の由来
当神社は延喜式内に列する名社て昔から加利多明神と讃へています.御神名の示すとおり農耕授福・危難消除の神であります。
倉稲魂之命は一般に稲荷大明神と申し、商売繁昌を国常立命は生育を掌る母神であります。
千余年間に亘る鎮座地・神谷山から昭和3年にこの地へ遷座になりました。
例祭日 4月15日
境内末社
祖霊社 地元出身の戦没英霊191柱を祀る
大神山神社 字気母智命・大穴侍命・大年命
      猿田彦命・久那戸命を祀る
幸神社 大物主命。少名彦那命・八意思兼命を始め木.火・金・水の五行の祖神を祀る
井戸神社 「いも代官」井戸平左衛門を祀る。

社頭掲示板



苅田神社

この神社は、有史以前から現在地の東南に位置する神谷山烏帽子端(エボシバナ)の巨岩上に鎮座した磐座(イワクラ)信仰の場でした。当時の神谷山麓には波根湖と呼ばれる潟湖が広がっていました。
 律令時代には五穀豊穣の守護神として石見国では物部神社に次ぐ尊崇を集め、年々国幣が献ぜられました。特に旱魃や長雨等による天候不順の時や、病虫害発生の甚だしい時に於ては国司・郡領が命じて当社の祭祀を厳重に行わせ、御神護を祈ったと記録されており、寛平7(896)年段階では本殿・拝殿・楼門・回廊を備えた壮麗な神社に発展していました。
 万寿3(1026)年の大水害で神谷山は崩落、社殿は悉く失われてしまいましたが、幸い御神体の内二体が矢代柳の大樹に引っ掛かっていたため、それを奉遷して神谷山麓の波根湖畔に新たな社殿が造営されました。
 鎌倉時代になると、波根湖を排水して農地化するために、湖と海との境に横たわる丘陵地を有馬次郎左衛門が7年がかりで切り割りましたが、旧波根湖の低湿地帯に面した地では木造建築の劣化が早いため、苅谷神社の社殿は何度も改築され、天正18(1590)年にも参議毛利輝元によって大規模な改築が行なわれています。江戸時代においては神谷明神とか神田明神と称され、病魔悪災を刈り取る御霊験があるとして庶民の信仰も集めました。昭和3(1928)年に鉄道駅に近い現在地へ遷座しています。

大田市紀行10 苅田神社



石見国INDEXへ        TOPページへ



順悠社