皇大神宮
こうたいじんぐう


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【公式HP】

皇大神宮(こうたいじんぐう)は通称「内宮」とも申し上げ、神路山・島路山を源とする五十鈴川の川上に鎮座しています。
 ご祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)。このご神名はお祭りに際して神前で畏まって称え申し上げる最高のご名称で常には皇大御神や天照大御神と申し上げています。
 わが国最初の正史(せいし)『日本書紀』(にほんしょき)の伝えによりますと、皇大御神は光華明彩(ひかりうるわ)しく、六合(あめつち)の内(うち)に照り徹(とお)らせり、と称えられ、皇孫(すめみま)・天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を高天原からこの国に降されますときにあたって、尊の御位と地上の永遠を祝福して豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)のさかえまさんこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)りなかるべし。とお言葉を与えられました。
 また、天と地の続く限り、瑞穂の国が栄え行くために、皇大御神は高天原でご自身がおつくりになられている田の「稲の種」を手渡されました。米をつくる暮らしが、この国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられたのです。
 国の内に隈なく光が照り徹ると称えられる皇大御神の御神体は、八咫鏡(やたのかがみ)で、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(くさなぎのつるぎ)を加えて三種の神器(しんき)と呼ばれます。
 この御鏡を代々宮中で天皇ご自身がお祭りされていましたが、崇神(すじん)天皇の御代に皇居の外、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を立ててお祭りすることになりました。神籬とは榊のような常緑樹で囲われた神聖なお祭りの場を意味します。そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が皇大御神をお祭りされていましたが、垂仁(すいにん)天皇の御代に至って、倭姫命(やまとひめのみこと)が新たに皇大御神をお祭り申し上げるにふさわしい地を求められることになりました。
 倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られましたのち、伊勢の国の度会(わたらい)の地、宇治の五十鈴川の川上に到られ、皇大御神のお教えのままに「祠(やしろ)」をたててお祭り申し上げることになりました。今からおよそ2000年前のことです。祠は社とも書き、家(や)や屋(や)の代(しろ)という意味で、大きなお祭りに際してそのつど新たにたてられる建物のことです。
 神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮(神の宮殿)、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武(てんむ)天皇から持統(じとう)天皇の御代にかけてのことです。20年に1度の大祭、神宮式年遷宮もこの時代に始まりました。
 内宮の宮域は、5,500ヘクタールの広さで、大別して神域と宮域林とに区分され、さらに宮域林を第一宮域林、第二宮域林に分けています。
 神域とは内宮のご社殿を中心とした付近およそ93ヘクタールの区域で、ご鎮座以来まったく斧を入れることのなかった禁伐林です。参道に立ち並ぶ鉾杉(ほこすぎ)は神域の森厳さを保ち、またモミ、マツ、ヒノキ、カシ、シイ、クス、サカキなどが繁り、暖帯北部の代表的な林相をなしています。
 第一宮域林は、神域の周辺並びに宇治橋付近、それに市内から遠望される地帯1,000ヘクタール余の区域で、大部分が天然林で、天然スギを主として、シイ、カシ、サカキ等の林をなし、神宮の風致上、大切な区域で、風致の改良、樹木の育生に必要な場合以外は、伐採(ばっさい)しないことになっています。
 第二宮域林は、第一宮域林以外の4.400ヘクタール余の区域で、五十鈴川水源の保持並びに宮域の風致の増進を目的とするとともに、ご造営用材の備林としてのヒノキの植樹が計画的に実施されています。
 神宮では、斯界の権威者に委嘱して、神宮境内地・自然保護委員会が組織され、神宮の太古のままの大自然をそのままに守っていこうと努力しているのです。


【鎮座地】

伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。
崇神天皇は皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てさせた。後、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。
大和国  笠縫邑 (33年)
丹波国  吉佐宮 (4年)
大和国   伊豆加志本宮 (8年)
紀伊国  奈久佐浜宮 (3年)
吉備国  名方浜宮 (4年)
大和国  弥和乃御室嶺上宮(2年) 
大和国  宇多秋宮 (4年)
大和国  佐佐波多宮
伊賀国  隠市守宮 (2年)
伊賀国  穴穂宮 (4年)
伊賀国  敢都美恵宮 (2年)
近江国  甲可日雲宮 (4年)
近江国  坂田宮 (2年)
美濃国  伊久良河宮 (4年)
尾張国   中島宮
伊勢国  桑名野代宮 (4年)
伊勢国  奈其波志忍山宮
伊勢国  阿野国
伊勢国  阿佐加藤方片樋宮(4年)
伊勢国  飯野高宮(高丘宮) (4年)
伊勢国  佐佐牟江宮 (佐佐牟江社)
伊勢国  伊蘓宮
伊勢国  大河之滝原之国
伊勢国  矢田宮
伊勢国  家田々上宮
伊勢国  奈尾之根宮
伊勢国  五十鈴宮 (五十鈴川上宮)


【式年遷宮】

20年に1度の大祭、神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)は、正殿(しょうでん)を始め御垣内(みかきうち)のお建物全てを新造し、さらに殿内の御装束(おんしょうぞく)や神宝(しんぽう)を新調して、神儀(御神体)を新宮へお遷し申し上げる、我が国で最も重要なお祭りのひとつです。
 神宮の古伝では神宮式年遷宮は、天武天皇の御発意により、次の持統天皇4年(690)、第1回の式年遷宮が内宮で行われました。以来、戦国時代に中絶するという事態に見まわれながらも、1300年にわたって続けられ、平成25年秋には第62回の神宮式年遷宮が古式のままに行われました。
 掘立柱(ほったてばしら)に萱(かや)の屋根が特徴の神宮の建築様式は、唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と呼ばれ、弥生時代にまで遡る高床式穀倉(たかゆかしきこくそう)の姿を今に伝えています。
 檜(ひ)の香もかぐわしいお建物が完成するまでには、ほぼ8年の歳月を要しますが、その間、御料木を伐り始めるに際してのお祭りを始め御造営の安全をお祈りするお祭りや伊勢市民がこぞって参加する行事などが数多く行われます。
 御造営と平行して、御装束神宝もまた古例に則り調製されます。御装束とは、正殿の内外を奉飾する御料の総称で、525種、1,085点を数えます。これに対して、神宝とは調度の品々で、189種、491点あります。
 伝統工芸の優れた技術を守り伝えるという重要な意味もありますが、御造営とともに式年遷宮に欠くことのできない大事業です。
 内宮、外宮の両正宮と14の別宮で遷宮の大祭は行われますが、かつて「皇家第一(こうかだいいち)の重事(じゅうじ)、神宮無双(むそう)の大営(たいえい)」とその意義が説かれましたように、皇室の大祭でありますと同時に、神宮にとりましてはその永遠性を実現する大いなる営みでもあるのです。
公式HP


伊勢神宮

いせじんぐう 三重県伊勢市に鎮座する皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称で、伊勢大神宮、二所大神宮、単に大神宮などとも称して来た。明治以降は「神宮」とのみいえば伊勢神宮を指すものとされる。皇室は申すまでもなく、広く一般の崇敬をうけて来た国民の総氏神たる位置にあり、また全国の神社の根元的な存在として仰がれるところから、特に本宗と旺ばれる。
皇大神宮は神路山の麓、字治の五十鈴川の川上にあり(伊勢市宇治舘町)、天照皇大神宮、天照大神宮、大神宮、伊須受能宮、内宮などとも呼ばれ、皇祖・天照大御神(神宮では天照坐皇大御神と称す)を主祭神として、相殿に天手力男命・万幡豊秋津姫命を祀る、その創立の由来は『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』など日本古典の語るところである。高天原において天照大御神より援けられた八咫鏡は、歴代うけつがれ皇居のうち天皇と同殿に祀られていたが、第10代崇神天皇の御代に神威をかしこみ別殿に遷し祀られ、更に各地を巡幸されて次の垂仁天皇26年9月に伊勢国五十鈴川上に大宮を造営・鎮座された。この時に御杖代として仕えた豊鍬入姫命(崇神天皇皇女)倭姫命(垂仁天皇皇女)は、御代ごとに末婚の皇女を神宮に奉仕させる斎宮の起りであり、南北朝の後醍醐天皇の時代まで続いた。明治以降は皇族をもって神宮祭主にあてられ、今日もその原則が踏襲されている。
豊受大神宮は高倉山の麓、山田原にあり(伊勢市豊洲町)、豊受宮、止由気宮、渡会宮、外宮などとも呼ばれ、豊受大御神を主祭神とし、相殿に御伴神三座を祀る。延暦23年(804)撰上の『止由気大神宮儀式帳」によると、第21代雄略天皇の22年、天照大御神の神託が天皇のお夢にあって、丹波国比治の真奈井原から豊受大御神を御饌都神としてお迎えしたとある。当宮の東北隈に御饌殿(井楼組と称する古風な構造)が設けられており、毎日朝夕の二度、天照大御神に御饌をお供えする日別朝夕大御饌祭(常典御饌とも)が行われているのも、鎮座の由来に基つく。
両大神宮の祭神と鎮座の由来、また最重要の儀式である遷宮の前後などからすれば、内宮が中心であることは否定出来ない。両宮の間にこのほか種々の面で小異を認め得るものの、むしろ二宮一体として考えるのが穏当であろう。参拝の順序は外宮を先とするのが古今の慣例である。両宮にわたる年中恒例の祭祀は古くから「外宮先祭」であって、参宮順路もそのような影響をうけていつしか固定したと思われる。
神宮で行われる多くの祭の中で、大祭とされるのは恒例の祈年祭(としごいのまつり、両宮とも。2月17日)・神御衣祭(内宮のみ、5、10月の14日)・月次祭(6、12月の両度、外宮は15、16日。内宮は16、17日)。神嘗祭(10月、外宮は15、16日。内宮は16、17日)・新嘗祭(両宮とも11月23日)、臨時の遷宮祭・臨時奉幣祭である。
伊勢の地において「おおまつり」といえぱ神嘗祭を指し、年中で最も大きな祭で、一般の神社の例大祭に相当する。朝夕の二度、大御神に新穀の由貴(最高の清浄性を示す古語)の大御饌を供え、引き続き勅使が幣帛を供進する。両度の月次祭も神嘗祭同様の次第で行われ、古くから三節祭(三時祭とも)と呼ばれて重んぜられる。遷宮祭は二○年に一度行われるところから、式年遷宮の名称で世に知られ、神宮最大の儀式である。正殿以下の多くの殿舎が造営され、関連の諸祭は八年前から始まる。遷宮の制は天武天皇の御代に定められたといわれ、第一回の遷宮は内宮が持統天皇4年(690)、外宮が同6年(692)とされ、長い伝統をもつ。昭和48年10月(内宮が2日、外宮が5日)の遷宮は弟六〇回にあたった。
両大神宮の中心は南面する正殿で、そのうちに主祭神と相殿の神が祀られる。内宮では正殿の背後に東宝殿(幣帛と神御衣の類を納む)・西宝殿(古神宝の類を納む)があり、外宮では前面にこの二殿があって狭義の内院を形成し、瑞垣をもって囲う。喘垣の外側には蕃垣・内玉垣・外玉垣・板垣とめぐり、各々南北に御門を配し、この御垣の内を大宮院または広義の内院と称する。御垣内に中重鳥居・四丈殿(もと斎王候殿)・宿衛屋があるのは両宮共通であるが、外宮には更に東北隅に御饌殿、西北隅に外幣殿がある。正殿・東西宝殿・外幣殿は純正なる神明造で、特に内宮正殿は唯一神明造(内宮の尊厳は至上のもので他に同一のものを作らない)と呼ばれる。神明造は大社造(出雲大社の様式)とともに、神社建築の古態を示す双壁である。
両宮の宮域内外には付属の宮社が多く存在し、それらは別宮・摂社・末社・所管社に分けられている。別宮は正宮(本宮)についで重き取り扱いをうけ、内宮には荒祭宮(正宮の後方)。風日祈宮(神楽殿の前方)・月読宮・月読荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈弥宮(伊勢市中村町)・滝原宮・滝原並宮(渡会郡大宮町)・伊雑宮(志摩郡磯部町)。倭姫宮(伊勢市楠部町)の一〇所、外宮には多賀宮・土宮・風宮(正宮の前方)・月夜見宮(伊勢市宮後町)の四所がある。渡会郡内の神社は古くから神宮の所管に属し、うち『延喜式神名帳』に記載する官祭の神社を摂社、官祭には預からないが延暦の儀式帳に載せられる神社を末社とする。内宮には摂社二七所、末社一六所、外宮には摂社一六所、末社八所がある。所管社は正宮の祭儀と深い関係をもつ神々を祀り、内宮に三〇所、外宮に四所、別宮滝原宮に三所、同伊雑宮に五所がある。
なお神宮が経営する付属施設として、倉田山に徴古館(御装束・神宝や崇敬資料などを保存・陳列)、農業館(農業・林業・水産資料の収蔵・展示)、神宮文庫(両宮の文庫から発展した図書館で、神道に関する貴重図書をはじめ約二〇万冊を所蔵)があり、多くの人が訪れている。

神社辞典



大神宮

大神宮 三座 相殿坐神二座並大預月次新嘗等祭 大神宮は於保武加美乃美夜と訓べし○祭神天照大神、相殿左天手力男神、右萬幡豊秋津姫命、○宇治郷五十鈴河上に在す、内宮と称す、○江家次第、(新年穀奉幣)伊勢、(依可卜定不書入)○日本紀、神代巻上、伊弉諾尊、伊弉册尊共議曰、吾巳生大八洲國及山川草木、何不生天下之主者歟、於是共生日神、号大日霊貴、」一書云、天照大神、』一書云、天照大日霊尊」同一書曰、於是日神方開磐戸而出焉、是時以鏡入其石窟者、触戸小隙、其隙於今猶存、此即伊勢崇秘之大神也、』、古事記、(神代段)此之鏡者、専爲我御魂而、如拝吾前、伊都岐奉、次思金神者、取持前事為政、此二柱神者、拝祭佐久々斯呂伊須受宮、(今伝ふる処、此思金神は相殿にまさで、手力男神とある不審事由は、既に古事記伝十五に云へるを見るべし)」旧事紀(神祇本紀)復使鏡作祖天糠戸神、(即石凝姥命之子也)採天香山之銅、使圓造日像之鏡、其状美麗矣、而触窟戸有小瑕、其瑕於今猶存、即是伊勢崇秘太神、所謂八咫鏡、亦名真経津鏡是也、○日本紀、(神代上)一書曰、至於日神閉居于天石窟也、諸神遺中臣連遠祖興台産霊児天児屋命、而使所焉、乃細開磐戸而窺之、是時天手力雄神侍磐戸側、則引開之者、日神之光満於六合、〇同紀、(神代下)一書曰、天照大神、以思兼神妹萬幡豊秋津姫命、配正哉吾勝々速日天忍穂耳尊爲妃、令降之於葦原中國、また一書曰、高皇産霊尊之女天萬幡千幡姫、○倭姫世記云、天照太神一座、相殿神二座、左天児屋命、右天太玉命、(鎮座伝記同じ)一書曰、天手力男神、萬幡豊秋津姫命、』、御鎮座傅記云、御戸開前神二座、左天手力男神霊、右萬幡豊秋津姫命、」御鎮座本紀云、天照大神、相殿坐神二前、自爾以往、以天手力男神、萬幡豊秋津姫命、天照皇大神乃為相殿神坐、(元是號御戸開神)儀式帳云、天照坐皇太神(所称天照意保比流売命)同殿坐神二柱、(坐左方称天手力男神霊、霊御形弓坐、坐右方称萬幡豊秋津姫命也、此皇孫之母、霊御形劔坐)御坐地、度會郡宇治里、伊鈴河上之大山中、云々、〇神名秘書云、村上天皇御宇祭主公節之時、皇大神者奥座故称内宮、渡会宮者外座故申外宮、始自此時也、
日本紀、崇神天皇6年、先是天照大神倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之内、然畏其神勢共住不安、故以天照大神託畳鍬入姫命、祭於倭笹縫邑、仍立磯堅城神籬、」垂仁天皇25年3月丁亥朔丙申、離天照大神於豊鋤姫命、託于倭姫命、爰倭姫命求鎮坐大神之処、而詣菟田篠幡、(倭姫世記云、崇神天皇58年、倭姫命事依奉利、60年幸行而、佐々波多宮坐、)更還之入近江国、東廻美濃到伊勢國、時天照大神誨倭姫命曰、是神風伊勢国、則常世之浪重浪国也、傍国可怜國也、欲居是國、故随、太神教、其祠立於伊勢国、興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照太神始自天降之処也、(一云、丁巳年以冬10月甲子、遷于伊勢国渡会宮)
社地
延暦儀式帳云、御坐地、四至、(山遠道阻廻、又近園四北河廻)神境以東石井嵩、赤木嵩、朝熊嵩、黄楊山、尾垂峯等為山堺、以北比奈多島、■島、志婆崎、酒瀧島、阿婆良岐島、大島、屋島、歌島、都久毛島、石島、牛島、小島等爲海堺、以南志摩國鵜椋島、錦山坂並為山堺、以西伊勢国飯高下樋小河、此称神之遠堺(常入 大神宮駅使鈴口塞)飯野郡磯部河、此為神之近堺、以北海限、連胤云、こは往古の神境也、今は違へり、此地名の事ども、委く儀式解に就て知るべし、
官幣
日本紀 持統天皇6年5月乙丑朔庚寅、遣使者奉幣于伊勢大神、
連胤云、ここが幣帛を奉らる事のみえたる始め也、此後今に至りて挙るに遑なし、故に贄せず、
祭祀 
式一、(四時祭上)凡神嘗祭、為中祀、」同二、(四時祭下)九月祭、伊勢太神宮神嘗祭、云々、」同四、(伊勢大神宮)四月、九月神衣祭、云々、九月神嘗祭、(但朝廷幣数在内蔵式)云々、
速胤云、これ朝儀に預る祭也、
例幣
続日本紀、養老5年9月乙卯11日、天皇御内安殿遣使供幣帛於伊勢大神宮、」江家次第首書云、例幣、9月16日外宮神嘗祭、17日内宮神嘗祭、令奉其幣帛也、養老5年始之、」公事根元云、例祭とは伊勢大神宮へ御幣を奉らせ給ふ、毎年の事なるによて、例幣とは申也、昔神祇官へ行幸なりて、此事行はる、此事朱雀院の御時よりはじめらる、云々、さて此祭は、応仁大乱の後は廃れたるを、後光明院卸宇正保年中再興ありて、今は毎年行なはるる也、
連胤云、ここも其濫觴のみをいふ也、
齋宮
崇神天皇御時豊鍬入姫命を始めて、代々内親王いらせ給ひしが、御深草院御時非子内親王を定め給ふ後は断絶たり、其七十五代の緯は、齋宮記に拠て見るべし、
封戸
式四、(伊勢太神宮)封戸、当国、度曾郡四百烟、多気郡三百四十四烟、飯野郡□□□、飯高郡三十六戸、壹志郡廿八戸、安濃郡三十五戸、鈴鹿郡十戸、河曲郡三十八戸、桑名郡五戸、諸国、大和国十五戸、伊賀國廿戸、志摩國六十六戸、尾張國四十戸、参河国廿戸、遠江國四十戸、右諸國調庸雑物皆神宮司検領、依例供用、其当國地租収納所在官舎、随事支料、若遭年不登る、損田七分以上免徴租稻、並注帳申送所司、
神田
式四、(伊勢太神宮)神田四十六町一段、大和国宇陀郡二町、伊賀國伊賀郡二町、伊勢國四十二町一段、(桑名鈴鹿両郡各一町、按濃壹志両郡各三町、飯高郡二町、飯野郡十一町六段、渡会郡十町五段、)右神田如件、割度會郡五町四段、(二町四段大神宮、三町渡会宮、)令当郡司営種、収獲苗子供用大神宮三時並渡会宮朝夕之饌、自余依当土古宝祖充供祭料、〇日本紀略、寛平9年9月11日、以飯野郡寄申神宮、被申兵乱可平之由、」応和2年2月27日、奉寄伊勢国三重郡、」天延元年9月11日、以伊勢国安濃郡奉寄之、」左経記、寛仁元年11月9日癸卯、以伊勢国朝明郡永可奉加寄大神宮、依御願也」百練抄、永保3年7月3日、伊勢大神宮近邊田畠等、永可奉寄之由宜下、
造替
式四、(伊勢太神宮)凡大神宮二十年一度造替正殿宝殿及外幣殿、(渡会富及別宮余舎造神殿之年限准此)皆操新材構造、自外諸院新旧通用、(宮地定置二所至限更遷)其旧宮神宝遷収新殿、但綾綿之類、頒給大神宮司及禰宜内人等、神祇祭主処分亦共有分、
連胤云、此発端は垂仁天皇25年(或云26年)にて、夫より数度造替あり、式年に定めしは元明天皇の御世也とそ、されど其後は年限に遅速あり、抑応仁大乱に至りては修理だにかつかつなりしが、徳川家天下を治めちれしより式年の造替あられし也、昔より造替の年等は神境記談、また再興の趣は享保遷宮記を見るべし、
公卿勅使
二所大神宮例丈、伊勢公卿勅使、聖武天平10年5月辛卯、勅使右大臣正三位橘宿禰諸兄、中臣神祇伯名代、○続日本紀、天平10年5月辛卯、使右大臣正三位橘宿禰諸兄、神祇伯從四位下中臣朝臣名代、右少辮從五位下紀朝臣宇美、陰陽頭外從五位下高麦太賽神賽奉于伊勢太神宮、
祭主
職原抄、垂仁天皇御宇、天照大神鎮座伊勢国度曾郡五十鈴川上之時、命中臣祖大鹿島命為祭主、其後代々爲祭主、〇二所大神宮例文、祭主次第、第一御食子大連、天児屋根命廿一世孫可多能祐大連公一男也、推古天皇元年任、在任十六、中納言伯意美麿、國足一男、始為祭主、改祭官字爲主者也、天武天皇元任、在任三十七年、
大宮司
皇大神宮儀式帳、初神郡渡会多氣飯野三箇郡本記行事、右從纏向珠城朝廷(垂仁)以来、至于難波長栖豊前宮御宇、天万豊日天皇(孝徳)御世、有爾鳥墓村造神痔弖、為雑神政所仕奉支、同朝廷御時仁、初大御宮司所称、神痔司中臣香積連須気仕奉支、
社職
式四、(伊勢大神宮)禰宜十人、(從七位官)大内人四人、物忌九人、(童男一人、童女八人)父九人、小内人九人、〇三代実録、元慶3年5月23日壬子、伊勢國度會郡大神宮氏人神主姓荒木田三字、大神宮氏人有三神生姓、荒木田神主、根木神主、度會神主是也、自進大肆荒木田神主首麻呂以後、脱漏荒木田三宇、今首麻呂裔孫向官披訴、故因旧加之、」日本紀略、応和2年2月27日乙卯、天皇幸八省院、叙綱宜一階、
宮寺
続日本紀、宝亀11年2月丙申朔、神祇官言、伊勢大神宮寺、先為有崇遷建他処、而今近神郡、其崇未止、除飯野郡之外移造便地者、許之、
難事
百練抄、養和元年9月13日、金銅被進太神宮、依天慶例也、件使神祇少副定隆、去五日於塗中卒去、於鎧者散位大中臣在定取進之、」同年10月3日、依逆乱事可有行自幸大神宮之由、被立御願如何之由、被仰合摂政左右両府、各無先跡、難計申之由之、」寿永2年6月11日内蔵人右衛門権佐定長奉勅、召祭主親俊於殿上口、仰云、兵乱平者、可行幸大神宮之由、可祈請中之由、被仰下之、此後召官寮、令ト申行幸大神宮之吉凶、神宮行幸、天平12年11月行幸伊勢太神宮、被祈申太宰少弐廣継謀反事、」同月23日、諸卿定申伊勢大神宮司祐成與造宮使俊宗問注内外宮修造遅怠事、近曾祭主親俊奏法皇云、夢想云、斎神宮平伏庭上、父親定并親章卿(両人過去者)在堂上、以親定伝仰云、於我者令向天宮給畢、禅定法皇御事、所令申付荒祭宮給也、可被奉御剣、早可進院也、又常宮守護事、以泰経可申沙汰也、此後夢醒了、後朝内宮一禰宜成長持来御劒蒔虎云、、可進院之由有夢想、仍自宝殿所取出也、請取件劔、忽上洛者、』仁治3年5月15日、将軍家被行太神宮臨時祭、舞人装束以下移鞍等被調下云云、」建長2年2月28日甲子、於院殿上被議定去年伊勢外宮遷宮時所取落之安宮瑠璃壷事并西寳殿血氣事、摂政以下参之、

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