上古時代は参拝に便なく、山のふもとに仰拝所をもうけていた。 |
由緒 御祭神 左御神座素盞鳴尊正御神座大己貴命右御神座稲田姫命 鳥取県神祇年表の巻頭に、孝元5年(今から約200年前)八千矛神(またの名を大己貴命)が天羽車大鷲にのってこの山に降りられた。そこで、この山の名を鷲峯と名づけ、八千矛神をまつって神社とした。と、書かれております。 3代実録巻6貞観4年(今から約1100年前)「因幡国鷲峯神従5位上を授く」と国史にものっております。現在の宮森鎮座となるまで、つぎのような年代をへています。 上古時代は参拝に便なく、山のふもとに仰拝所をもうけていた。 今から約1200年前御冠獄に建立される。 今から約660年前中尾崎に改め造られる。(今でも「古宮」として氏子の方で知る人も多くあります)。 更に慶長17年11月1日、亀井豊前守政矩公が現在地に再興された。社殿は3間4方総欅造りとなっております。 当時は、志加奴神社鷲峯大明神と称えていましたが、1社に2号を称えるのはいわれのない事と、明治2年5月に鷲峯神社と改められております。 例祭日10月29日境内坪数3,628坪氏子個数240戸 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
鷲峯神社 三代実録巻六貞観4年9月の條に「8日甲戊授因幡国正六位上鷲峯神従五位下」同16年5月の條に「11日戊戌授因幡国従五位下鷲峯神並従五位上」と記載せる国史現在社にして、其の創立に付きては因幡誌に「鷲峯大明神山西の麓に鎮座あり、華表より本社へ二町余りなり相伝ふる上古は絶嶺に鎮座ありしが高山なるを以て諸人参拝に便なく桓武天皇延暦年中神廟を御冠嶽に建つ」と記せり、尚同書には神代に於て八千矛神(大己貴命の亦名) 天羽車大鷲に乗て霎妾を■め給ふ時この山に降り給ふ、此の縁由よりして山名を鷲峯と名づけ、八千矛神を祀りて神社となすと伝へ、又同社伝ふる旧記には、大己貴命八上姫と共に八十神等を追撃して面影山(鷲峯山の別名)に至り給ひし時、山麓に神籬築きて神祭せられしものにして其の数四十七堆ありたりといふ、今尚各所に其の古跡を留む等の諸説をなし、?に等しく鷲峯山頂又は山麓に於て大己貴命に縁由ある祭祀の行はれたるを証せり、然るに延暦年中に以て、建立せられし宮社は兵燹の為に燼滅せるを以て、花園天皇文保元年9月29日同山中尾崎に改めに造る、土人今古宮と称するは是なり、次で元亀年中芸州の毛利氏再興せり、然るに慶長9年正月10日領主亀井武蔵守故有りてこれを焼却せしかば、祭事断絶すること九年に及べり、同17年11月1日其子豊前守政矩に社地を転じて再興す、現社地是なり、寛永10年藩主池田家より社領十六石一斗を寄進せらる、近世に至りて社号を志加奴神社鷲峯大明神と称へ来りしが、一社に二社号を称ふるは謂われなき事とて、明治2年5月志加奴神社の称号を廃し、単に鷲峯神社と改称す、同2年10月字南河内鎮座子守大明神(祭神水分神)春日神(祭神天児屋根命)諏訪神(祭神武御名方命) 松尾社(祭神大山祇命) 稲荷神(祭神倉稲魂命)天神(祭神菅原道真)の六柱の神を合祀し、翌3年10月社領を上地し、同5年村社に列格す、降りて明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正5年5月16日大字鷲峯字天王鎮座無格社深谷神社(祭神素盞鳴尊、倉稲魂命) 逢坂村大字飯里字寺坂鎮座無格社飯山神社(祭神不詳) 同村大字下石字浦山鎮座無格社 国石神社(祭神不詳) 同村上原字荒神鎮座無格社原井手上神社(祭神大山祇神)を合祀して今日に及べり。 鳥取県神社誌 |