旧鎮座地に2説あり。 @天正年間(1573−92)亀井氏鹿奴在城の時、社地が山下の街心にあったので比志也久米という所に移し、その後又、宿村今の地に遷した。 Aもとは鹿野鍛治町裏にあったが、亀井氏が河内川をこの谷に引いた爲に、洪水の度毎に社地が崩れるなどの被害を受けるので、やむを得ず宿村へ遷した。 志加奴の神社は古くから山の宮と里の宮があり、山の宮を志加奴神社鷲峰大明神、里の宮を志加奴神社勝島大明神と称していた。 |
志加奴神社 延喜式所載の名神小社にして、往古鹿野町に鎮座せられしより志加奴神社と称へ又一に勝島大明神と称す、即ち因幡誌に、「天正年中亀井氏鹿奴在城の時、其社地山下の街心にあるを以て、神祠を比志邑久日と云所(芦か谷邊へ今田地の字となる)に移し、後又宿村今の地に遷せり、故に今に於て鹿奴の土人半勝島を以て氏神とす(東の方勝島西の方勝宿)」と記せり、代々武門の崇敬篤く、慶長16年8月26日領主亀井家より社領として田一町を寄進し次いで寛永10年11月28日藩主池田家より社領高16石4斗5升を寄進せらる、降りて明治元年神社改革に際し勝島大明神の社号を廃し、境内末社稻荷神(祭神保食神)を合祭す、同4年社領を奉還し、同5年郷社に列格し、明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正5年9月1日瑞穂村大字二本木字寺谷鎮座小林神社(祭神天照大御神、月読命、保食命)同村大字重高字樽丸下谷鎭座樽間神社(祭神埴山姫命)同村大字土居字山王前鎭座山崎神社(祭神不詳)の三神社を當社境内末社として合祀し一社を創立して上坂神社と改称す、次いで同年9月12日鹿野町大字鹿野字青木鎭座青木神社(祭神須佐之男尊)を本社に合祀せり。 鳥取県神社誌 |