神体は、「方六尺余の青石」(『因幡志』)であるという。
ある夜、空がきびしく光り、牛に乗つた祭神天明玉命がこの石に降臨したので、これを神体とするようになつた。 本殿の下にあるこの石は、古来板囲いがしてあるので外からは見る事が出来ない。 |
板井神社 延喜式神明帳に記載されている式内社で、板屋明神あるいは板葺大明神とも称した。 社伝には 「勧請ノ儀ハ神皇十五代神功皇后三韓安々平ケ給フ勅願ニ因ル御神社ナリ。依テ本廟安全ノタメ人皇四十代天武天皇白鳳4年迄御勅使在之為ニ金鋳領被附置御儀ハ勅請起ニ分明云々・・」 と記されている。 また「因幡誌」や口碑によると、本殿の下に、大きな青石があり、祭神の降臨した遺跡との言い伝えがある。近郷八力村の郷名を「宮石」と称したのはこれによるという。 藩政期には鳥取藩主池田家より奉幣及び献鎮があり、支藩池田摂津守は親しく社参したという。 祭神は、天明玉命、例祭日は10月15日。 気高町教育委員会 社頭掲示板 |
板井神社 延喜式所載の神社にして、板屋明神又は板葦大明神と称す、其の創立に至りては当社縁記書の写に「勧請ノ儀ハ、人皇十五代神功皇后三韓安ク日雄平ケ給ノ勅願ニ因ル御神社也、依テ本朝安全ノタメ人皇四十代天武天皇白鳳4年迄御勅使在之爲金銭領被附置御儀ハ勧請記二分明云々」と記せるを以て姑く掲記す、因幡誌及口碑の傳ふる慮に拠れば、当社本殿下に方六尺余の青石あり、祭神の降臨せられたる遺跡にして今尚板囲を施し他見を許さずと称す、尚近郷八ケ村を古く宮石の郷と称し又嘗て名和長年公の後醍醐天皇を奉ずるや、当地宮石一族直に馳せ加はり殊動を挙げしが、此の宮石家は元と因幡國造伊福部氏より出で氣多郡領となり、深く板井神社を尊信したりしが、後氏を宮石と称したるなりと傳ふ、之等共に當社の青石に縁由したるより称したる郷名及び氏名たるなり、當社古く社領九石六斗余を有したりしが所属の寺院(現今土龍院と称す)当社より分離したる際半額を分領し、明治維新前には四石五斗八升八合を有せり、藩主池田家より奉幣及び献饌等の事あり、又支藩池田摂津守は親しく社参せり、明治4年社領を上地し、翌5年郷社に列せられ、同40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 鳥取県神社誌 |