加知弥神社
かちみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】加知弥神社 因幡国 気多郡鎮座

   【現社名】加知弥神社
   【住所】鳥取県鳥取市鹿野町寺内155-1
       北緯35度28分42秒、東経134度3分8秒
   【祭神】彦火火出見命 鵜萱葺不合命 玉依姫命
   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創祀年代は不詳
       永禄8年(1565)武田高信らが造営
       天正8年(1580)吉川元春は戦勝社領一〇石を寄進
       元和9年(1623)社殿修造
       寛永10年(1633)池田光仲社領三十九石六斗九升三合寄進
       寛政3年(1791)10月勝宿大明神と称
       享和元年(1801)4月勝宿大明神と称
       文政13年(1830)造営
       明治4年県社

   【関係氏族】勝部氏
   【鎮座地】当初鎮座の地は宿村
        そこから野渓山か、その南端の明神鼻へ遷
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「勝宿大明神」と称していた
   【社殿】本殿大杜造柿葺
       拝殿

   【境内社】東照権現・勝宿神社
   【神宮寺】宝照寺

最初、加知弥神社は現在の鎮座地の東方の、山を一つ越した所にある宿村にあり、そこから野渓山か、その南端の明神鼻へ遷り、ついで神職飯田氏の居所で当時飯田の森と称せられていた現在の社地に遷ったとされている。
当社周辺には、勝見郷・勝部郷・勝部川・勝谷・勝山・勝島と勝の着く地名が多く勝部氏の居住地とされている。
寺内部落の薬師堂付近には、塔礎とみられる礎石がある。遺瓦は奈良後期のもので、勝宿大明神の別当寺の旧跡だといわれている。


由緒

氏子のしおり
加知弥神社は気高郡鹿野町寺内飯田の森にある。祭神はひこほほでみのみことと、うがやふきあえずのみこと、たまよりひめのみことで創立年月はつまびらでないが、延喜式神名帳にのっている式内の古社でむかし勝宿(かししゅく)大明神といい、旧社地は宮谷あるいは明神ガ鼻であったという。中世以降武将の崇敬があつく、永録8年(1565)には武田高信、田公高清、矢田幸佐等が社殿を造営し、天正8年(1580)には吉川元春は戦勝を祈願して社領を寄進した。なお元春の祈願状、寄進状2巻が昭和32年12月県の保護文化財に指定されている。社伝によると天正年中豊臣秀吉は防己尾(つづらお)城落城のとき社領を寄進したとのことである。また元和9年(1623)には池田光政が社殿を修理し、寛永10年(1633)国主池田光仲はあらためて社領39石6斗9升3合を寄進したが、そのご累代の藩主も崇敬あつく社殿の営繕あるごとに金殻木材を寄進し幣帛(へいはく)を奉納した。明治4年には県社になり同40年3月、神饌幣帛共進神社(しんせんへいはくきょうしんじんじゃ)に指定された。大正2年11月には、当社の摂社(せっしゃ)および付近の神社14社を境内に合祀(ごうし)して1社をたて、あらたに勝宿神社ととなえた。例祭日は10月21日である。寺内部落の薬師堂付近には、塔礎とみられる礎石がある。遺瓦は奈良後期のもので、むかし勝宿大明神の別当寺の旧跡だといわれている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



加知弥神社

加知弥神社は大字寺内、通称飯田の森と呼ばれるところにある。祭神は彦火々出見命、鵜草葺不合命、玉依姫命。創立年代は不詳だが、延喜式神名帳にのっている古社で、昔は勝宿大明神と呼ばれていた。
中世以降武将の崇敬が厚く、永禄8年(1565)には、武田高信、田公高清、矢田幸佐などが社殿を造営。また、天正8年(1580)には吉川元春が戦勝を祈念して社領を寄進している。この折りの元春の祈願状と寄進状は県の保護文化財に指定されている。
鹿野町教育委員会

社頭掲示板



加知弥神社

県指定保護文化財
吉川元春 祈願状・寄進状
(昭和32年12月25日指定)
加知弥神社は、「延喜式」にその名が見える旧社で、中世以降武将の崇敬が篤く、勝宿大明神と称した。
祈願状は、元春が天正8年(1580)、気多郡母木(現気高郡気高町宝木)の宮吉城を攻め、これを落したときのもので、その勝利に報謝して青銅三百疋を進納し、あわせて今後の加護を祈念したものである。
一方の寄進状は、天正8年9月1日付けのもので、羽衣石城(東郷町)に南条氏を攻めて勝利を得た際、当社に社領十石を寄進したものである。 中世の武将の神社信仰は、戦勝の祈願と勝利の報謝のためにするものが多いが、この祈願状・寄進状もその好例で、当時の史料として貴重である。
昭和57年11月
鳥取県教育委員会

社頭掲示板



加知弥神社

特殊神事として「小忌祭おいみ」がある。
10/15夜8時頃、潔斎した宮司が氏子総代をはじめ10名ほどの氏子を従えて、当社西方1kmの明神ヶ鼻の「忌の森」(タブの木などが密生)まで赴き、神酒を供え、忍声で祝詞を奏上して9時頃帰着する。往復の道中は無言である。現在は一日だけの神事であるがかっては15日から例祭日(10/21)まで一週間毎日行われ、江戸時代にはこれを「ふださし」と称した。竹にお札をはさみ、忌の森にいき、突き立てて帰ったものと思われる。

http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/sm1ktm1.htm



加知弥神社

延喜式所載の名神小社にして、古く勝宿大明神と称せり、創立年月を詳にせすと雖も、因幡誌に「加知彌神社、勝宿郷寺内村祭神勝宿大明神是なり州中一二の大社たり」と載せ頗る旧社なり、其鎮座地部落名を寺内と称するは、当社の別當寺たりし宝照寺の所在地なるに因れりと言ふ、而して共の寺塔は往古既に鳥有に帰し全く形蹟を留めずと雖も、鐘棲の礎石と傅ふるもの残存し、其の規模の宏大なりしを窺ふべし、又現今の境内地は旧称を飯田森と称し、祀職の住せし所にして河れかの時代に社地を移転せられしものなり、而して旧社地は同村字宮谷或は明神ガ鼻なりと傳ふ、中世以降武門武將の崇信篤く、永禄8年武田高信、田公高清、矢田幸佐等社殿を造替し、天正8年武將吉川元春勝軍を祈願し社領を寄進す、(又曰社伝に天正年中豊臣秀吉防己尾落城の時社領を寄附せり、但し其寄附状を亡失せりと)文禄、慶長の頃領主亀井茲矩屡々社殿を造修し、又社領を寄附せり、元和9年池田光政社殿を修理し、寛永10年國主池田光仲改めて社領三十九石六斗九升三合を寄進す、當時社領高實に因伯神社中の首位なりき、其後藩主の祈願所として累代の崇敬篤く、社殿の営繕ある毎に金穀木竹を寄進し、又例祭には神馬を牽進し幣帛を奉納せり、而して藩主親ら社参せる事六代に及べり、明治維新後社領を上地し、明治4年縣社に列せられ同40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正2年11月28日当社の摂社にして氏子内に鎮祭せられし大字宿字小池無各社砂田神社(祭神不詳)大字今市字家脊戸無格社玉川神社(祭神不詳)大字今市字政所屋敷無格社今市神社(祭神不詳)大字宮方字八景無格社宮方神社(祭神不詳)大字中園字ぢ山無格社中園神社(祭神不詳)大字岡木字上早尾無格社早尾神社(祭神不詳)大字岡木字大日前無格社高田神社(祭神不詳)大字乙亥正字寺谷無格杜三平神社(祭神不詳)大字乙亥正字脊懸無格社重山神社(祭神不詳)大字勝見字稻荷谷無格社福田神社(祭神不詳)大字勝見字湯鼻無格社澤田神社(祭神不詳)大字勝見字家ノ上無格社腱山神社(祭神不詳)大字濱村字宮ノ谷無格社宮川神社(祭神不詳)大字濱村字家廻ノ中無格社濱村神社(祭神不詳)の十四神社を境内に合祀し一社を建立して新に勝宿神社と称せり。

鳥取県神社誌



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