大野見宿祢命神社
おおのみすくねのみことじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大野見宿祢命神社 因幡国 高草郡鎮座

   【現社名】大野見宿祢命神社
   【住所】鳥取県鳥取市徳尾80
       北緯35度30分5秒、東経134度12分8秒
   【祭神】野見宿禰
   【例祭】4月13日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代は不詳
       貞観8年(866)10月従五位下
       明和6年(1769)大野見大明神「高草郡神社御改帳」
       安政5年(1858)5月造営
       明治元年郷社
       明治40年神饌幣帛料供進神社指定
       大正7年8月改築

   【関係氏族】土師部
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「大野見大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神輿庫

   【境内社】

この辺を野見の保というのは、昔は氏神野見宿禰の神領であったからという。
このあたりは、もとは海であり、鎮座地は当時の島であつたという説がある。
祭神が在世中に、領内の旧居地に社殿を建立したという伝承がある。
境内地の頂上、本殿の北西方の上段に円墳があり、東方下段に副葬遺跡がある。往古より野見宿禰の墓所としても尊信された。


由緒

「相撲(角力)の神さま」
鳥取市街地から行徳を経て、千代橋を渡り、更に西へ進むと大正橋にさしかかる。橋の上から前方を見ると、小高い丘を包むようにこんもりとした森が目につく。この道はその森の麓を通りまっすぐに村落を貫き白く西に延びている。その昔、夜更けになると一陣の風と共に大坊主が大木の陰からぬっと現われ、旅人を怖がらせたという所謂「徳尾の大坊主」なる咄のでた所である。この森は全体が神域であり、丘の頂上には御祭神野見宿禰命をお祭りする大野見宿禰命神社が御鎮座座している。当社は戦国時代しばしば兵火に遇い、社殿の創立年月を詳らかにすることはできないが、延喜式(宮中の年中儀式、百官の儀、国々の諸式、作法等を漢文で記した書、西暦905年)神祇の巻に「因幡国五十座略高草郡七座大野見宿禰命神社」とあり、又倭名類聚抄(わが国最初の分類体漢和辞書、醍醐天皇の御代)に「因幡国高草郡野見郷」とある。貞観、延喜よりはるか古代より信仰の対象として崇敬されていたのです。古文書によると、姫路城より池田光政公九才にして鳥取城へ三十二萬石の大名としてご転封になる元和3年(西暦1617年)から明和4年(西暦1767年)までに数回社殿の建造がなされている。現在の本殿は安政5年(西暦1858年)5月に建てられたもので、弊拝殿は昭和16年(西暦1941年)に新築され今日に至っている。次に、御祭神、野見宿禰命について、当社の由緒から要約して記す。「天穂日命14世の孫である野見宿禰命は垂仁天皇の御代(約2000年前)に出雲国より召されて京に上がり、当代随一の豪の者当麻の蹴速と力競べを行い、蹴速を倒し殺す。宿禰は勇力を賞され京に留まり朝廷に仕える。これが相撲の始祖と呼ばれる理由である。この時代に高貴な人が死亡した時は側近に奉仕していたものを、主人の亡骸と共に墳墓に埋める慣わしがあった。時に皇后日葉酢媛命が亡くなられ、宿禰は人、馬等の土偶を造り共に埋め、生人を埋めない事に改めるよう献言する。天皇のお許しが出た上で、出雲より土師を多数呼び寄せ、種々の土偶を造り用いた。天皇はこれを賞され土師部の職を定め野見宿禰にこれを与えた。」野見宿禰命は土師部の始祖であり、相撲の守護神であり、野見の郷を主領す産土神である。野見宿禰の後裔である出雲大社千家尊福大宮司(大教正従五位)は明治10年七月参拝奉弊された。当神社境内にはシイ、タブの木、モチの木から海浜植物のトベラに至るまで繁茂し、植物生理学上からみて貴重な原生林であること、更に境内地の頂上で、本殿の北西方の上段に円墳があること、東方下段に副葬遺跡があることにより社叢全域にわたり、昭和九年八月文部省により天然記念物の指定を受けている。往古より野見宿禰の御墓所として遠近よりの尊信を厚くしている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



大野見宿祢命神社

大野見宿禰命神社記
因幡国高草郡野見の保、徳尾村に祀るところの神社は、野見宿根の霊なり。其の先天穂日命より出て、出雲に住し玉う、垂仁天皇7年秋7月、詔を承けて大和国に至り、当麻蹴速と角力して、是に勝ち玉う。本朝相撲の初めなり。同28年冬10月、皇后日葉酢媛命薨し玉う。天皇群郷に詔して曰く、従死の道如何と。宿根進んで曰く、夫れ君王の陵墓に生人を埋るは不良の事なり、豈後世に伝えんや願わくば、今便事を議せんと。自ら土部等をして埴を取り、人馬及種々の物形を造作して之を献り、自今以後此の土物を以て、生ける人に易え、陵墓に入れて後葉の法とせんと、天皇大いに喜び玉い、厚く其の功を賞し、土部臣の姓を賜う。仍て令を下して曰く、自今以後陵墓には、必ずこの土物を入れて、人を傷うこと勿れ。誠に、仁の至、義の尽なり、其弊を革め、皇統連綿として栄え、宿根の裔も亦繁栄せり、土部菅原秋篠大江は、皆これ宿根の後胤なり。貞観8年10月8日、因幡国無位大野見宿根神に従五位を授けらる。延喜式神名帳に載って著名なり。鎮座なり還通頻繁礼を尽くして尊崇し仰ぐべし云々
寛永4年丁亥夏4月
藤原具房

社頭掲示板



大野見宿禰命神社

延喜式所載の神社にして、三代実録巻十三貞観8年10月の條に「8日己卯授因幡国无位大野見宿禰神從五位下」と見ゆ、蓋し因幡の贄土師部の祭る所なり、古老の口碑に、祭神在世中に於ける領地内の旧居地に社殿を建立し、往古より土師氏の祖神たるの所以を以て参詣者各々手に土を盛り持來りて報賽せしが、歳月の久しき遂に堆積して一丘となれりと傳ふ、明治元年郷社に列せられ同40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、次いで大正7年8月14日本殿を改築す、尚当神社の社叢は■を主木とする常緑潤葉樹林にしてタブの木椎等の喬木大群落をなし植物生理學上貴重の群落参考資料として昭和9年3月1日文部省より天然記念物として指定せらる。

鳥取県神社誌



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