天穂日命神社
あめのほひのみことじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】天穂日命神社 因幡国 高草郡鎮座

   【現社名】天穂日命神社
   【住所】鳥取県鳥取市福井361
       北緯35度30分15秒、東経134度7分32秒
   【祭神】天穗日命
   【例祭】4月第1日曜日 春季例祭 10月9日近い日曜日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞観9年(867)5月21日正三位列官社
       永禄4年(1561)9月9日地域の五社大破のため相殿に祀る。後六王を称
       天正12年(1584)兵火で社殿焼失
       明治元年正式名に復称
       明治4年郷社
       明治40年神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】因幡国造氏
   【鎮座地】移転の記録はない
        一説に古くは高草郡布勢の現日吉神社社地にあったという

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天穂日命六王神社」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神輿庫・社務所

   【境内社】稲荷神社

因幡国の古代豪族・因幡国造氏の氏神であったと言われる。社地の背後には前方後円墳らしきものが確認され、因幡国造氏との関連が考えられる。


天穂日命神社

古代高草郡の豪族因幡国造氏の氏神を祭る式内社である。
古代の因幡に大社は国府町にある宇部神社であるとされているが、格式から見ると9世紀中頃までは、天穂日命神社が宇部神社よりも上位にあった。すなわち、因幡国内における中心的勢力はこの高草郡に本拠を於く因幡国造氏であった。
なお、天穂日命神社が、元は現在の布勢日吉神社の社地にあったという一説もあり、社地の決定には疑問視する向きもある。
平成4年3月
鳥取市教育委員会

社頭掲示板



天穂日命神社

天穂日命神社由緒
 太祖天照皇大神の第二皇子にます天穂日命は勅命により差し遣はされ大国主大神に御奉仕せらる
 貞観九年因幡国正三位天穂日命社を官社に列すとあり由来皇室の尊崇厚く式内郷社に列せらる

社頭石碑



天穂日命神社

どうやら社地が移動したとされる原因は、因幡守護の山名氏が二上山城を捨てて天神山城を作ったとき、近江の日吉神社を勧請したのですが、それ以前にそこにあったのが天穂日命神社だったのではないでしょうか。卯山はもともとは古墳ですので、そこに神社は昔からあったでしょう。天神山も古墳でしたから、こちらにも別の神社はあったかも知れません。(現在は緑風高校の敷地です)
この二つの山(古墳)を水路でぐるりと取り囲み、天神山城はさらに内堀を作り、山名氏の理想とする城下町を作ろうとしたようです。
しかし天神山城は山名氏の内紛ごたごたもあり、100年ほどしか機能していませんでした。

https://ameblo.jp/yazujinjya/entry-10634559142.html



天穂日命神社

延喜式所載の神社なり、三代実録巻十四貞観9年5月の條に「廿一日己詔又以因幡国正三位天穂日命神列於官社」と見えたり、永禄4年9月岡ノ谷、小辛川、長谷、湯ノ谷、荒船の五社大破に及びたるを以て当社相殿に祀る、之より六王と称し奉る、即ち因幡誌に「大谷の保福井村の氏神花表額に天穂日命六王神社と記せり」と載する之なり、然るに豊臣秀吉山陰平定の際、社殿兵燹に罹りしより旧の如くならずとも雖も、国司藩主等の尊崇絶えず、其の後祭神熊野櫞樟日命を分ちて大郷村大字福井字ソバガ谷に遷し奉り、明治3年再び本社に合祀し、同12年11月更らに旧地奉祀し、荒船神社と称せしが、大正3年12月17日大郷村大字福井字家ノ前に鎮座無格社稲荷神社(祭神 保食神) と共に三度本社に合祀す、是より先明治40年2月2日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、大正7年4月本殿を改築す。

鳥取県神社誌



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