境内地から西北約100mに、一つの岩山がある。これは古来岩室山と称せられ、その北側に隣接して存在してゐる大きな岩は、神社岩または岩室石とよばれた。ここが旧跡であつたと思われる。 伊和神社は当初から岩室のある場所(岩室村)でまつられ、その鎮座地に因んで、岩室大明神とよばれてきたのであろう。 |
伊和神社 延喜式所載の神社なり、又、岩室大明神と称す、現社地より西北二十間の処に一の岩山あり、其山の北側に大岩あり、高さ二丈余にして、古来其の山を岩室山と称し、岩を神社岩又は岩室岩と名づけ、党神社の旧後たり、蓋し神社名も之に則りたるものなり、当社は旧高草郡中の旧社に属し、社殿結構を極めしが、応仁の頃天下騒乱に際し、神領絶え、其後当国守護職山名氏神田を寄進せしが、天正年中国十兵乱に依て再び神領断絶せり、尚奮志に明暦3年、寛文7年、貞享5年の数度に亘りて、社地見改めを行はれたる旨を記す、貞享5年以前はは安長、湖山、吉山、足山、南ヶ隈五ヶ村の総社として崇敬せしが、享保年中故ありて氏子区域減少し後岩吉、足山二部落のみの氏子となれり、降りて明治40年12月1日松保村大字芦山字屋敷鎮座無格社足山神社(祭神 大己貴命)同村大字岩吉字屋敷山の下鎮座無格社吉川神社(祭神 須佐之男命)を合祀せり。 鳥取県神社誌 |