景行天皇の時代に筑前国に祀られた大渡島の神を、神功皇后がこの地に遷座したものといわれている。 境内社の祖霊社には当社神主大川氏の祖である千日民部が祀られ、延喜5年(905)3月19日の創立と伝わっている。 元は和多理山=猫山の山頂に祀られていた。 |
和多理神社 祭神 猿田彦命 約1000年前昔の延喜式神名帳にのる式内郷社という由緒ある古社である。大同2年(807)和多理の山(猫山)から現在地に遷し祭ったという説もある。本殿内には元弘の昔、後醍醐天皇が船上山より京都還幸の途上再建させられたという伝承のある、諾冊神社の正慶2年(1333)銘の古棟札が治められている。 社頭掲示板 |
和多理神社 和多理神社社叢 郡家町大字殿字地主 町指定 昭和51年8月30日 境内の植物 大小の常緑樹、落葉樹或いは針葉樹が無数に生い茂り、真夏でも涼風が吹きわたる。春には大小の山椿が真っ赤な花をつけ、初夏には大木に巻き上がった大藤葛が無数の淡紫色の美花で大空をいろどる。ことに社殿前の大イチョウは樹高30m、周囲3.7mの大喬木であり、又周囲4m、樹高30mの三本の大欅、タモの大木など昼なお暗い天然の大樹林である。 神社の由緒 祭神 猿田彦神、約千年前昔の延喜式神名帳にのる式内郷社という由緒ある古社である。大同2年(807)和多理の山(猫山)から現在地に遷し祭ったという説もある。本殿内には元弘の昔、後醍醐天皇が船上山より京都還幸の途上再建させられたという伝承のある、諾冊神社の正慶2年(1333)銘の古棟札が納められている。 郡家町教育委員会 社頭掲示板 |
和多理神社 延喜式所載の小社なり、因幡誌に「和多理の神社一座、延喜式神名帳所戴、八上郡和多理神社是也 八上八東旧為一郡 社傳曰、祭猿田彦命神功皇后自筑前國大渡島遷神主于此、因称和多理神云々土俗今大多羅大明神と呼もの大和多理の誤ならんか、和漢三才図會曰、和多理明神在八上郡社領三十五石、祭神猿田彦命、景行天皇朝祭之云々、按に景行天皇の時始て筑前國に斎て神功皇后の御世當國に遷座なるにや、時代少し異なりと雖も、今に至て凡そ二千年、其旧趾紛乱なし崇むべし、古社は天正の兵火に焼滅して神宝社記等皆灰燼となる神木松樹なり囲一丈八尺余長凡十四丈技焦爛す、其比の余煙の跡と云へり、二俣竹近年枯てなし、木石あり和多理の長壽石と號す、天明年中此石下に神鏡を掘出す囲五寸厚四分裏鶴亀模様あり今神前に納む と見え、又社傳に大同2年9月和多理の山(一に越山といふ)より現地に遷座せられ、松樹及二股の竹各一株長寿石此他種々の神宝を遷し奉れりと、降りて後醍醐天皇隠岐國より還幸せらるるや、名和長年供奉し当所に御駐輦遊ばさる、即ち西の国より潜幸し給ひし意を以て西御門と称す、名和長年の居住せし口平木村を爾來殿村とは称するなり、当時の神主大川左近大輔重宗勅を奉じて朝敵降伏の祈願をなし、領主長年亦社領拾町六段二十五歩を寄進せりといふ、天正8年7月羽柴秀吉當國入攻に際し、山名豊国と此地に曾戦し、社殿其他悉く兵焚に罹り社領亦没収せらる、次いで当郡若櫻城主山崎左馬允吉勝小社を修理す、尚元弘帝隠岐の國より御還幸の際西御門村の山中瀧山圓入寺に行在せられしが、當時當社神主大川重宗をして諾册二神を勧請して勅願せしめられし際の棟札當社に現存せし、文に「正慶2年5月25日尊治皇依勅願」と見ゆ、以て當社と元弘帝との縁由淺からざりしを窺ふに足るべし、宝暦3年10月19日社殿を造営す、現社殿是れなり、明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正10年大御門村大宇殿字大谷鎮座無格社大谷瀧神社 祭神速秋津姫命 同村大字大門字平木鎮座無格社天満宮 祭神菅原道眞 同村大字殿字芦ケ谷鎭座無格社芦ケ谷神社 祭紳須之男命 同村大字殿字越山鎭座無格社越山神社 祭神迦遇突知命 同村大字大門宇於庵鎮座無各社西山神社 祭神須之男命 の五神社を當社境内に移転合祀し殿神社と称す。尚境内なる祖震社には當社神主大川氏の祖なる千民部を祀る、延喜5年3月19日の創立なりと傳ふ。 鳥取県神社誌 |