武内宿禰が因幡の国の守護となって下向の節、一宮谷(不香田)にあった当社の境内で、白羽の矢を持ち「この矢の落ちるところに大炊の神を遷す」と矢を放ち、落ちた谷を矢落谷と名づけ、ここに社屋をたてて祀った。 社伝によると、天饒日尊の四世孫である、天礪目命が大炊形部と称し、その子孫が、祖神を祀った神社。 平成23年1月30日に建立された木製大鳥居は日本で五本の指に入る大きさとされている。 |
意非神社 祭神 天饒日命 創立年は不詳。延喜式神名帳に記載されている神社で、当時若桜町では唯一の神社であった。伝承によればかっての昔武内宿禰が因幡の国の守護となって下向の節、一宮谷(不香田)にあった当社の境内で、白羽の矢を持ち「この矢の落ちるところに大炊の神を遷す」と矢を放ち、落ちた谷を矢落谷と名づけ、ここに社屋をたて、矢堂羅村とした。例祭日10月9日 社頭掲示板 |
意非神社 日本一の大幟 平成元年十月八日に建立されたこの幟は、樹令百年屋堂羅産の杉(高さ31m)を竿とし、幟がタテ26.8m、ヨコ1.8mの大きさ(畳30枚敷ける広さ)で、揮毫は、幟が坂野重信前自治大臣(参議院議員)、掲揚台が西尾邑次鳥取県知事、記念碑は竹本憲治若桜町長である。この幟は、同神社で終戦頃まで使われていた五反のぼりを再建することになり、同地区の活性化を図ろうと作られた。 社頭掲示板 |
意非神社 延喜式所載の小社なり、因幡誌に「大炊宮当村の氏神なり、」延喜式神名帳載る所意非神社是也(按するに意は於なり) 意非は大炊の仮名の略なり、土俗老ノ宮と称するは大炊の訛りなり、近辺大炊村あり、是又地名を呼の神号疑なきもの歟、社伝曰形代白羽矢なり、里諺に当社初め隣邑長砂一宮谷にあり、武内宿禰命来征の時其地より矢を放て日、此矢の落る所に神殿を遷すべしと因て今謂ふ矢落谷(屋堂羅の北にあり)遷す、又其隘陋なるを以て近世此地に(屋堂羅と浅井の間)遷せりと、此説に拠て考ふるに屋堂羅は即矢通の仮名書なるべし」と見え、元禄2年同村字宮ノ前に移して社伝を再建し、降りて明治7年12月更らに社殿造営せり。 鳥取県神社誌 |