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祭神は「大己貴神とその後の神を祀る」とわれていた。その後の神とは多加牟久神であるが、それをいつか忘れて、特に大正から昭和の初め頃には大己貴神の子神で有名な事代主神にあてるようになった。 多加牟久命は賊退治のために派遣されてこの地へきたが、かつてこの地は大己貴命と八上姫とが契りを結んだ場所であったと知った。 大己貴命の16代目の子孫である多加牟久命は、この場所に大己貴神を祀って自身は土着した。その子孫もまたこの社に多加牟久命を併せ祀って、代々神主として奉仕したという。 もと河原町本鹿字高尾(山)にあつたが、天正9年(1581)秀吉が鳥取城を攻略したとき、兵火によつて焼かれてしまつた。そこで社殿を本鹿地区の麓の宮座に遷して再建した。 河原町本鹿の住民はもと眞砂という所に住んでいた。それがあるとき大洪永に遭つて、村中の家はすべて流出した。そこで今度は水の怖れのない高い位置に村中の者が移住したところ、崇め祀る神社が村の下方になつてしまつた。これでは不敬にあたるというので、元禄2年(1689)に村の上方字上ノ山の現在の位置に多加牟久神社を移転した。 |
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多加牟久神社 【祭神】大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、保食神(うけもちのかみ) 【由緒】創建は不明。延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう:927年)記載の式内社。 景行天皇の御世に武内宿禰(たけのうちのすくね)が熊襲征伐の途中、播州まで来た時、「因幡の金屋の洗足山に山賊(鬼)がでて近郷の住民を苦しめるので退治してほしい」との訴えを聞き入れ部下の多加牟久命(たかむくのみこと)を差し向けた。 洗足山に対峙する高尾山に仮陣屋を置き、みごと鬼退治した。住民は大変喜び、仮陣屋の場所のいわれを教えた。その昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)と八上姫(やかみひめ)が八十神(やそがみ)達に追われて逃げ込んだ場所であること。さらには大国主命が自分から16世前の先祖にあたることなどから深い縁(えにし)を思い、九州には下らず神官としてこの地にとどまり大国主命を祀った。その子孫もこの社に多加牟久命も合わせて祀り、代々神主として奉仕した。これが神社の名の謂れです。 社頭掲示板 |
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多加牟久神社 延喜式所載の小社なり、因幡誌第十一に「曳田郷本角村の山上にある氏神岡大明神是なりと云伝ふ、其社地を察するに古地にあらず、土人口碑に当社往古より転変今に至て三度、其初は在高尾山其花表の跡を牟久呂女田と云(本角の下十四五町に在鹿野中井両村の境為す)中比遷座の地を古宮と云へり、今の社地は近世元禄(元禄2年8月なり)の此之を鎮す。想ふに山を高尾と云、田を牟久呂女と云は多加牟久の古地歟、按るに多加牟久は高向の仮名書にて人の姓氏なり、(姓氏記録高向の朝臣者武内の宿禰六世の孫■子の臣の後なり) 又地名也、然らば、上世此地の名を呼ぶ野神号疑なき歟」と記す、然るに特選神名帳には「今按社伝祭神大穴牟遅神事代主命とあれど伊福部系図に大己貴命十四世孫武牟口命と云人日本武尊に従て本国の賊荒海を平定たること見えたり、之によるに疑らくは此武牟口命を祀れるにはあらざるか此武牟口命を大己貴命の後と伝へたるを以て大穴牟遅神事代主神と云るならん姑附て考に備ふ」と考証せり、尚社伝に拠れば延喜式に二座とせしは大穴牟遅命八上比売にして其後事代主命を合祀せり即ち今に多加牟久之神二座 岡大明神と称す謂ふ然らば祭神中に八上比売を脱せるものなり、一説に当社を岡大明神と称すは非なり、降りて正徳4年10月本社を再建し、明治元年9月境内末社稲荷大明神(祭神 保食神)を合祀し、同5年村社に列格し、同41年11月19日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 鳥取県神社誌 |