当社は佐貫村の奥の谷隘の山麓に北面して鎭座。往古は1.2Km許り奥の宮谷(上宮下宮あり)にあつたが、氏子の参詣に不便なため、何時の頃か現在の大智谷に遷られた。 |
都波只知上神社 都波只知上神社概略 一、 延喜式内社 旧村社、祭神は大帯日子淤斯呂和氣尊(景行天皇)・日本武尊の二神を祀る(その後明治以降いく度か近郷の氏神が合祀され現在二十六座が祀られている)。当社は佐貫村の谷隘の山麓に北面して鎮座、(往古は1.2Km許り奥の宮谷にあったが氏子の参詣に不便なため、いつのころか現在地佐貫字林の谷に遷られたと伝えられる)当社の創立年代は不詳であるが凡そ1700年以前に建てられたものである。 二、 由緒−伝説によれば昔人皇十二代景行天皇の朝に蜘蛛谷と云う処(大皿谷)に、土蜘蛛が住み、悪行甚しく人々を苦しめたので、帝は皇子日本武尊に武内宿弥を添え、海石榴樹で作った椎で山を穿ち退治された(日本書紀巻第七記事による)。其時の功を推崇して祭り「都波只知上神社」と稱して氏神とした。神号「都波只知」は「海石榴市」の假名書である。(文化五年−1808−社号をそれまで市大明神或は大地大明神−大智とも書く−と称されていたが現号に復称されている) 三、 祭神 大帯日子淤斯呂和氣尊。日本武尊。天穗日尊。大己貴尊。八上比賣尊。三穗津姫尊。天太玉尊。素盞嗚尊。櫛名田比賣尊。彦火火出見尊。景行天皇。鹽土老翁尊。猿田彦尊。事代主尊。意富伊我都命。伊弉諾尊。伊弉册尊。浅ア尊。十握劍。保食神。罔象女神。倉稲魂尊。譽田別尊。級長戸邊尊。帯中津彦尊。気長足姫尊 四、 神階−仁寿元年(851)冬10月従五位下を授く(文徳実録)。大正5年11月3日神饌幣帛料供進神社に指定される。 五、 合祀社−明治元年、字西山鎮座岩瀬神社、境内鎮座稲荷神社、字国本鎮座高良神社、三社を合祀、同五年村社に列格す。明治42年、字宮の前鎮座石坪神社、字廣鎮座白鬚神社を合祀、大正4年、大字八日市字蜘蛛谷鎮座八日市神社を合祀す。 六、 鳥居−嘉永5年(1852)の再建。二の鳥居には寛延2年(1749)の銘あり。四の鳥居は定かでない。 燈籠は天保14年(1843)弘化3年(1846)文久元年(1861)等の銘あり。神紋は丸に劔花菱である。 七、 例祭日 10月5日 八、 建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽所、神輿庫、参籠所 九、 境内坪数 1268坪 (注) (佐貫郷には六日市、八日市等の市のつく地名が残っているが以前は境内で市が開かれ盛大な祭祀が行われていたと云う。戦前は社前に神輿が据えられ鉾榊も行列に加わり夏祭には茅の輪くぐり等が行われていた。戦後は祭も衰微したが麒麟獅子の舞は受継がれて実施されている。海石榴は椿の音便、上古は交通上の中心として神社を中心に市が開かれ群衆する人々に日光の直射を蔽う為枝葉群茂する樹木(椿類)を植えたと云われる) 社頭掲示板 |
都波只知上神社 延喜式所載の小社にして、又文徳実録巻三仁寿元年冬10月の條に「戊申因幡國都波只知等五神並授從五位下」と見えたり、世俗呼んで市大明神(又、大智大明神)と称す、因幡誌に曰く都波只知上神社は八日市の西八町独活谷の口に在り、此の地は城原と称し、又海柘榴市と云ふ、景行天皇紀に「天皇留于來田見邑 (今號谷一木村)権興宮室居之、仍興群臣議之曰、今多動兵衆、以討土蜘蛛、若其畏我兵勢将隠山野、必爲後愁、則採海石榴樹、作椎爲兵、因簡猛卒、授兵椎、以穿山排草、襲石室土蜘蛛、而破于稻葉川上、悉殺其党血流至踝、故時人其作海石榴椎之処、曰海石榴市、亦血流之処、曰血田也(血田、在法美郡因幡川上、俗所謂許天牟河原也)復将討打猿、径度爾疑山、(在法美郡、今俗作禰宣谷)時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前、如雨、天皇更返城原、而卜於水上、」即ち此の地海石榴市の神の鎭座地にして其の祭る処景行天皇日本武尊なり、都波只知は海石榴市の假名書にして、土人今市大明神といふは、故實の存する処にして殊勝といふべしと記せり、降りて文化5年都波只知上神社の社号に復旧す、明治元年8月當村字西山鎮座岩瀧神社 祭神倉稻魂命級長戸邉命 當境内鎮座稻荷神社 祭神保食神 同村字國本鎮座高良神社 祭神帯中津彦命、誉田別命、気長足姫命 の三社を合祀す、同5年10月村社に列格せらる、明治42年8月1日同村字宮ノ前鎮座村社石坪神社 祭神天穂日命、大己貴尊、三穂津姫命、素戔嗚尊、櫛名田比売尊、八上比売尊、天太玉尊、彦火火出見尊、塩土老翁尊、景行天皇、日本武尊、猿田彦尊、事代主尊、意冨伊我都尊、伊弉諾尊、伊弊册尊、浅崎神、十握劔、保食神 同村宇廣イ鎮座村社白髭神社 祭神伊弉諾尊 を合祀せり、大正4年10月1日同村大字八日市字蜘蛛谷鎭座村社八日市神社 祭神素戔嗚尊、罔象女神 を合祀し、翌5年11月3日神饌幣帛料供進神社に指定される。 鳥取県神社誌 |