大江神社
おおえじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】大江神社 三座 因幡国 八上郡鎮座

   【現社名】大江神社
   【住所】鳥取県八頭郡八頭町橋本734
       北緯35度21分11秒、東経134度14分59秒
   【祭神】大己貴命 天穗日命 三穗津姫命
       (合祀)素盞嗚尊 品陀和氣命 級長津彦命 保食神 武甕槌命 菅公 高皇産靈神
       大山祇神 罔象賣神 神皇産靈神 猿田彦大神 少彦名命 稻背脛命 奇稻田姫命
       經津主命 伊弉諾命 月夜見命 大年神 大香山戸臣神 若經津主命 瓊瓊杵命
       木花咲夜姫命 彦火火出見命 豐玉姫命 脚摩乳命 手摩乳命 市杵嶋姫命 湍津姫命
       豐岩窗神 櫛岩窗神 訓黒同姫命 蛤具姫命 國常立尊

   【例祭】4月 29日 例祭
   【社格】旧郷社 因幡国二宮
   【由緒】創立年代不詳
       仁寿元年(851)従五位下
       貞観元年(859年)因幡国守大江氏雄が再建
       寿永2(1182)大江広元奏請して正一位
       嘉元3年(1305)12月8日造営
       貞治7年(1368)再興
       元禄年間(1688−1704)大江神社と復称
       享保年間(1716−36)造営
       明治5年3月郷社
       明治40年3月16日神饌幣帛料供進神に指定

   【関係氏族】大江氏
   【鎮座地】かつて社は大江川の東側にあつた
        大江川の西の現在地のすぐ上の平坦な場所に遷
        その後現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「正一権現」「財原大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・籠堂・随神門

   【境内社】

かつて社は大江川の東側にあつたらしく、戦乱により破壊されて大江川の西の現在地に移転したといわれている。もつともここでも多少の移動があつたらしく、現在の大江神社のすぐ上の平坦な場所が旧社地と伝えられている。
日本一祭神の多い神社と称しており祭神は61柱と言う。


大江神社

祭神 大己貴命 天穂日命 三穂津姫命
祭日 大祭4月29日
当社は因幡国二宮である創立は不詳であるが文徳実録(879)に当社を式内社とし「神階従五位下」を授くとあり、927年の延喜式神名帳に当社三座が載っている。859年(貞観元年)に因幡国主大江氏雄がまた927年(延長5)に因幡国主大江貞基も社殿を再建している。
順徳天皇の頃(1211〜1222年)「正一位大権現」に進み因幡国主大江広元の氏神となり崇敬された。明治の初年頃大蔵省書記官大江卓が来社横額を上げている。明治五年郷社の社格を受け現在の社殿は1918(大正7)の改築である。
平成5年12月
船岡町教育委員会

社頭掲示板



大江と大江神社について

大江について
 ところで大江氏の由来は、定説では桓武天皇の御代、現在の京都市西京区大枝(おおえ)を発祥の地とするそうですが、八上の大江は、その後の命名となるのでしょうか。式内社の大江神社は、平安時代に大江氏が登場する前にはなんと呼ばれていたのでしょうか。財原明神とも呼ばれていたそうですが大江、と名のり始めたのは、大江広元が八上に来る前からだったようです。
 大江広元は、因幡に数ある土師氏系の神社から、船岡の大江神社を自らの氏神神社として選び出したのは当時において、相当な社格があったことと、由緒が伝えられていたからに違いありません。大江広元が因幡国守を務めたころに、正一位大権現にまで社格が上げられました。
 わかる範囲で大江神社とかかわりのあった大江氏の名前を挙げてみます。
大江氏雅 
     859年 因幡国守 社殿再建
大江定基 伝和泉式部の父
     927年 因幡国守 社殿再建
大江広元 1184年〜1185年因幡国守  大江神社を氏神神社とする
大江師貞1387年 地頭で智頭の虫井神社を山頂部より山腹へ遷座したときの願主
 大江氏がこの大江神社の神職として少なくとも約500年間、代々関わっていたように思えます。
 規模の大きい神社は国が管理するようになった明治以降は世襲制が禁止されてしまい、伊勢神宮も、現在は内宮の荒木田氏や外宮の渡会氏等が祭祀を継承しているわけではありません。出雲大社は、確か南北朝時代ごろに社家が分かれたものの、現在もなお世襲制を守っています。
 しかし、明治以前の神社は、代々の世襲神主が継承しているところが多かったのです。よほどの政変や戦乱の激しかったところ、祭祀の継承がなんらかの理由で途絶えた神社等はもちろん別です。
 その後、大江谷の3つの大きな社である大江神社と塩野上神社、そして赤倉神社ともに、林氏を名のる神職が仕えていたようです。大江は姓であり、苗字ではありませんから大江氏の末流はたとえば、毛利氏や長井氏、等々を名のるようになります。林氏も大江姓の流れを引くものであると思われます。もっとも、大江谷のほとんどの家系が大江氏をルーツに持っているように思われます。
赤倉神社 1719年林権少輔が大江神社より独立して社を再興 (現在も林氏が神職を担っています。)
 つまり林氏が大江神社に仕えていたことが伺えます。
 塩野上神社  由緒書きには  神主は、大江神社の神主林左京亮藤原忠継 と記されており、大江の3社にいずれも林氏が神職を務めていたことがわかります。
 大江神社は現在、勝連(かつら)氏が神職を務めており、年に一度巫女舞が催されているそうです。
 また、「ヒューマニズムの先駆」として称えられている大江卓氏も大江神社を参拝して、社殿の扁額を寄贈しています。
 大己貴命がここで民を教化した、という伝説の残る地ですから、社も相当の歴史を持っているのは間違いないでしょう。最近の鳥取大学の地域学部の学生の皆さんによる調査によれば、大江神社にも素兎の神が土地の守り神として祀られているらしい事も判明しており、(地域学部地域文化学科のホームページを参照してください。)八上姫も祀られているようであることと併せて、大江神社が白兎伝承の重要なキーを握る社のひとつであることが浮かび上がってきました。

seesaaBlog八上 白兎神社



大江神社

延喜式所載の神社なり、又正一権現或は財原大明神とも称す、文徳實録巻三仁壽元年の條に「冬10月戊申因幡國大江神授從五位下」と見え、因幡誌には「大江神社大江郷財原村(坂田村)財原大明神是なり 三座中殿 天穂日命、大己貴命。三穂津姫命 摂社三十余神郷中の大社たるを以て大江神社と称す」と記せり、往古国司正四位下因幡守大江氏雄当社を再建す、其後大江廣元氏神として崇敬せり、後二條天皇嘉元3年12月8日本殿相殿二神境内末社五十二神拝殿、神楽殿、神輿宝庫を建立せり當時の棟札現存し其文に「嘉元三季乙巳十二月八日大勧進地頭平宗康大宮司藤原吉政」と記載せり、次いで因幡民談記に、寛文年中記録に其社柱の彫刻に貞治7年再興云々の記事あり、元禄年間大江神社と復称し、享保年間本殿、拝殿、神楽殿を改築す、降りて明治元年9月6日境内末社三十五社 祭神52柱 を合祀し、同5年3月郷社に列せられ、同40年3月16日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正5年4月6日伊井田村大字水口字上土居鎮座無格社水口神社 祭神高皇産霊神、神皇産霊神、大山祇神、罔象女命、保食神 大伊村大字下野字下野谷口鎭座無格社下野神杜 祭神高御産巣日神、神産巣日神。大山祇神、猿田彦神 を合祀し、同5年12月9日船岡村大字坂田字大谷平鎭座無格社坂田神社 祭神素戔嗚尊 を合祀す翌6年2月27日伊井田村大字殿字鷹匠鎮座無格社殿村神社 を合紀す。

鳥取県神社誌



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