古代この地に織部が置かれ絹を織ることを業とした。地名も「服」と号し機織の業の発達進歩を祈って機織の神を尊崇し本社を創立勧請したと思われる。 往古は現鎮座地から約800m南、川向うの小字御内谷と称する谷隘に鎮座していたが寛永13年(1636)現在地に遷。 |
福部 古代福部には大きく三つの集団があったといいます。 荒坂神社を氏神とするアラサカ集団、服部神社を氏神とするハトリ集団、そして海岸部のアマ(海部)集団で、それぞれの地域に古墳が固まっています。服部神社は現在砂丘上にありますが、元は山側の「古宮」というところに祭られていたようです。 服部は律令時代には服部郷となり、現在の福部に繋がっています。 海部は海士という地名として残り、ここでは「あもう」と読みます。 ご近所の神社訪問記https://ameblo.jp/yazujinjya/entry-11182082964.html |
服部神社 延喜式所載の小社なり、績日本紀和銅5年秋7月の條下に因幡國にて綾錦を織らしめられし由を記せり、其位置は即ち当社所在の服部の郷にして、當時この郷に機織の工匠の住せしを知るべし。此等工匠は軈て其の祖神を祀りて當社を創立せしこと容易に推知し得べし、然して三代實録巻二十五貞観16年5月の條に「11日戊戌授因幡國從五位下服織神並從五位上」と記載し因幡誌に「二所八幡宮延喜式神名帳載る所の法美郡服部紳社是也荒坂神社の條下に註する如く服部庄は旧法美郡に属する事これにて分明なり」と記せる如く頗る旧社なり。降りて明治元年11月當村字縣邸鎮座牛頭天王 祭神素戔嗚命 を本社に合祀す。同40年12月19日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 鳥取県神社誌 |