三代実録に「貞観5年11月17日因幡国から新羅国人57人荒坂浜に来着」の記載がある。その頃は荒坂浜近くに鎮座していたと推定されるが、現在その地がどこであるかはわからない。 明治4年3月25日、それまで矢谷村字山王前に鎮座し、北裏土居の氏神であつた当社は、摂社荒神宮の旧社地であつた現社地にご遷座。 『播磨国風土記』(奈良時代の715年ごろに成立)に、播磨国の佐用(讃容)に関連して、因幡国の国造である「阿良佐加比売」(あらさかひめ)の娘の話が掲載されている。この「阿良佐加」は荒坂神社と関係があるだろうと考えられている。 江戸時代までは「荒坂神社」は今よりも1kmばかり海に近い場所にあった。 |
荒坂神社 江戸時代の矢谷村には、「荒坂山王」と「八幡宮」があったそうだ。 そして八重原村では産土神として三宝荒神と牛頭天王を祀っていたと云う。 明治時代になり、神仏分離が行われると、矢谷の「荒坂山王」は明治元年(1868年)に「荒坂神社」に改称した。 同時に八重原の三宝荒神は「荒神宮」となり、荒坂神社の摂社の扱いになったようだ。 これとは別に「八重原神社」というのがあったそうだが、これについてはよくわからない。 明治4年(1872年)、矢谷の「荒坂神社」は、八重原の「荒神宮」の境内地へ移転する。 これが今の荒坂神社だ。移転の理由はワカラナイ。 その後、明治44年(1911年)に八重原神社が荒坂神社に合祀されている。 一方、矢谷の八幡宮は明治元年(1868年)に「箭渓神社」に改称、さらに大正7年(1918年)に下流の高江地区にあった「立川神社」を合祀し、大正9年(1919年)に「塩見神社」に改称した。 というわけで、現在の荒坂神社は、名前こそ「荒坂」を受け継いでいるものの、神社の位置は延喜式の荒坂神社とは場所が異なっている。 全国神社仏閣図鑑 |
荒坂神社 延喜式所載の小社なり、荒坂山王と云ふ、三代實録に、貞観5五年11月新羅人荒坂濱頭に來着云々と記せるは即ち現今荒坂社の地なり、因幡誌に「荒坂山王村の下の森の中に鎮座あり今此神廟を観るに神光衰徽して渺たる一小社なれども、林木倒れ朽ち葛藤梢を纒ふ有様幾星霜を経たるか知るべからず、近傍に幣殿、神樂殿、燈明田、油代など云ふ名尚田土の称に残れり上古大社たりしこと察すべし」と見え始め矢谷村字山王前に鎭座せられしを、明治4年3月25日摂社荒神宮の旧社地なりし現社地に遷座せらる。次で明治44年12月10日元塩見村大字八重原字竹ノ内鎮座八重原神社 祭神素戔嗚命 を合祀す。同社は元と牛頭天王と称し、明治元年八重原神社と改称したるものなり。 鳥取県神社誌 |