甘露神社
かんろじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】甘露神社 因幡国 巨濃郡鎮座

   【現社名】甘露神社
   【住所】鳥取県岩美郡岩美町陸上 57
       北緯35度35分54秒、東経134度21分38秒
   【祭神】大山祇命 啼澤女命
   【例祭】10月10日 秋例大祭
   【社格】
   【由緒】仁寿2年(852)5月創祀
       中古戦乱により現在地に遷座
       永享3年(1413)造営
       文安3年(1446)10月造営
       貞享2年(1685)10月造営
       元禄16年(1703)9月造営


   【関係氏族】
   【鎮座地】旧跡鎮座地は、現在地より西ヘ約1Km通称神谷山
        中古戦乱により現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「藏王権現」と称していた
   【社殿】本殿
       幣殿・拝殿・参籠所

   【境内社】

線路の脇から山中に入り岩盤の間をぬける参道がある。
旧跡鎮座地は、現在地より西ヘ約1Km、陸上川の向う側、通称神谷山に在あった。
中古戦乱の時、海賊来り侵して民家に放火す、村民離散して神事を執行することができなくなり現在地に遷座した。
江戸期には中島村(現在の東陸上)の生土神として、海浜の山下松林中に在る氏神藏王権現と二神同社に鎮祭した。(山の方蔵王権現海の方甘露神社と称した)。
甘露神社の甘露はおそらく神室(かむろ)か神路が転嫁しかんろになり甘露という字を充てたのではないか。
伝承では、仁寿2年(852年)、春日大明神より因幡国はじめ九つの国に甘露が降るというお告げがあり、使者が当地を訪ねたところ、氏神山(神谷山)の峯に大きな岩があった。
その左右にある笹に甘露が溜まっていたのを発見し、それを持ち帰って帝(第55代文徳天皇)に献上したところ、平穏になったことから、現社号が定まった。


甘露神社社叢

珍しい暖地性シダの宝庫
延喜式内社甘露神社の社叢は、珍しい暖地性シダの宝庫で、樹林は過去において伐採などが行われたらしく、本来この辺りで見られる常緑樹の他にいろいろな落葉樹が見られる。
参道入り口付近には、アカマツ、ケヤキ、タブノキなどが、社殿南側には、スダジイ、ヤブニッケイ、サカキなどが見られる。また、草本層には、特徴的なものとして、オオカニコウモリが生息しており、その他にもスミレサイシン、コミヤマミズなど、多種の植物が見られる。
シダ植物も多く、参道入り口付近の岩や樹幹にはマメズタが着生しており、参道西側の崖には、コモチシダ、オニヤブソテツなどが観察でき、樹林下には、オニ力ナワラビ、ハイホラゴケなどが見られる。晋通、暖地性のこのようなシダ類の群生地は、県内では数少なく貴重なものである。
岩美町教育委員会

社頭掲示板



甘露神社

延喜式所載の小社なり、因幡誌に「中島村の生土神なり延喜式神名帳載る所甘露神社これなり、海濱の山下松林中に在る氏神藏王権現と二神同社に鎮祭せり 山の方蔵王権現海の方甘露神社 社傳に曰祭神啼澤女命也甘露神と称するは神廟當初甘露谷 東陸上にありて仁寿2年甘露、谷に降る故事なり にありし故に此號あり中古戦乱の時海賊來り侵して民家を放火す村民離散して神事を執行するに便なく茲に神立を此里に鎮座なせり陸上東西本一邑なるの故なり今旧地に座さずと雖も神源明らけく神號猶存す疑ふべからす蔵王社祭神大山祇命也二神両村の氏神とす」と見え又文徳実録巻四及び社傳に拠れば仁壽2年5月因幡始め九ケ國に甘露降ると奏す帝不豫なり即ち使を九ケ國に派して甘露を索めしむ使者當社に至り其山頂隈岩の傍にて滾々として出づる甘露を発見し持ち帰りて帝に献せしに病忽ち癒え給ふ依て此の社號を賜ふとありて鎭座の概要並に社名をなすに至りし緑由を窺ふに足るべし永享3年陸上村寺谷次右衛門中島三郎右衛門本殿を修理す。

鳥取県神社誌



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