二上は二神山の意ではないかと思われる。往古二上山に祭神数社あった。山嶺に鼓の明神があり、東に天神社(高住村傍に)南に(撞明神(高野坂延興寺村に遷す高野神社これ也)北に八幡宮があった。中古山名時氏二上の城草創の時に諸社鼓山に移されて二上神社とした。 |
史跡二上山城跡 二上山城は、南北朝時代、北朝年号で表すと文和年間(1352年〜56年)に、そのころ因幡の国(島取県東部)に勢力をのばしていた山名氏により築城されたと推定されており、後に因幡の国守護所とされました。 現在、標高346.6mの山頂にある一の平を起点とし、北東方向へ二の平、三の曲輪と展開する主要部のほか、八カ所の出城の跡が残されています。 巨濃郡(現在の岩美町・福部村)で産出される金・銀・銅といった鉱産資源、当時の因幡の国の中心地であった児在の国府町方面への交通路の確保、そして古くからの海運で栄えていた岩本の湊をおさえるといった経済的な面を持つ一方で、二上山城は軍事的・戦略的にも非常に優れた立地条件を備えていたと考えられます。 日本中を争乱の渦に巻き込んだ南北朝時代には全国各地に数多くの山城が築かれましたが、その一つである二上山城は、戦いのための機能のみを備え、住居施設としでの投割が完全に分雌された典型的な南北朝期の山城といえます。 しかし、標高300mを越える山域は麓の館と離れていて不便であること、また因幡守護所としては位置的にあまりに但馬の国(兵庫県西那)寄りであることなどから、やがて守護所移転という事態をむかえました。 また戦国時代の半ばになると、城は軍事面以上に、政治・経済といった社会的中心地としての性格をよりはっきりと持つようになりました。また鉄砲の出現に代表される戦術の変化なども追い打ちをかけ、やがて二上山城は城としての機能を失っていくことになります。 社頭掲示板 |
史跡二上山城跡 二上山城の位置する二上山は標高346.6m、所々に位置する巨岩と、標高200m前後からの急勾配をもつ、さわめて険阻な山です。城は山項郎の一の平の平及び一の平帯曲輪を中心とし、北東方向へ向かって二の平、そして大小八カ所の削平地からなる三の曲輪と続く主要部からなっています。 このほぼ一直線にならんだ城の状況をみると、二上山城は北側からの寄せ手を意識して築城されていたようです。東西両斜面はかなり険しく、この方面からの攻撃は不可能と思われます。一方で、他の斜面に比べゆるやかな南側の尾根づたいのルートは非常時の逃げ道となっていたようで、こちらからの攻撃は少ないものと考えられていた様子がうかがわれます。 【一の平及び一の平帯曲輪】 東西50m、南北29.4m、面積953平方メートルの規模を持つ二の平は、近世の城で言う「本丸」にあたり、有事の際にはここから指揮・指令が発せられました。 また一の平の周囲にはおよそ200mにわたる帯曲輪が設けられ、一の平の守備・防御に役立っていたようです。 【二の平】 二の平は二上城で最も面積の大きい削平地で、東西およそ100m、幅は最も広いところで24mで、ここから陶器片をはじめとする生活用品の遺物が出土していることから、屋敷等の生活のための施設があったと考えられます。そのほかにも東端の土塁からはじまる三の曲輪方向への意図的な急勾配や、西端に位置する一の平入り口の守りを固めるためのやぐらの跡のような壇、また南側に9mへだてた場所に設けられた東西78mにわたる帯曲輪など、戦略面での工夫も各所に見受けられます。 【三の曲輪】 城の北東守備のために設けられた七つの曲輪群は、籠城の際に敵勢と向かい合う最前線となった場所です。地形を巧みに利用しつつ、各曲輪がたがいに連携して防御されては、この方面からの攻撃は非常に難しかったでしょう。なお、二上山城の各遺構の正式な名称は一の平、二の平以外に伝わっておらず「三の曲輪」は便宜上の仮称です。 社頭掲示板 |