本地は大和三輪の神で、これを祭祀した人が大田田根子である。先代旧事本紀の出雲国大己貴命本記に「大田田根子者大己貴命九世之孫而実三輪神の子也」とあり、この里を大田と云い、其神を大神と云うことから考えると、大田田根子の故事によつて大神を祭つたものと思われる。 |
美取神社 延喜式の神名帳には神社の名前は書いてありますが、所在地が書いてありません。巨濃の式内社の内、「大神社」だけが想定できる神社がなかったため、いくつかの神社が候補にあがりました。 この神社は、大神神社を祀った大田田根子の子孫が、此処に住んでこの神を祀っていたという説をとって(岩美郡史)、美取神社が「神」の字が脱字した「大神社」であるとしています。ここが太田という地名だったからと思います。 またある説では浦富にある荒砂大明神をあてるもの(稲場民談記)、また御湯神社を移したといわれる岩井の大野宮(御湯神社縁起による)がすなわち「大」の神社であるというもの、などがあります。 岩美町誌 |
美取神社 祭神 大物主神、菅原道真命、三上豊範 由緒 延喜時所載の小社にして大神社(一多神に作る)と称する之なり、後又緑明神と称す郷中の一宮たり。 三代実録巻二十四貞観15年7月の條に「28日庚寅授因幡国 中略 従五位上多神正五位下」と記せる旧社なり。当社創立に付因幡誌及び伊呂波字類抄等には日本書紀所載の大和なる大神神社に奉祀せし大田田根子の子孫曾て此の郷に居住し其祖神なる大神を奉齋したるなりとの説をとれり即ち此の地を大田と称し其神を大神と謂ふ然して土俗其の伝をなす等より推断する時は蓋し大田田根子の故事に縁由深きを知るに足るべし。 降りて徳川期に入り藩主の崇敬厚く国守池田家累代の後祈願所に当てられ即ち寛永12年池田光仲先例に依りて祈祷を執行し神饌料として米銀を献納せり、爾来郡中の大社として社殿の改修等に至る迄相当の寄進を見るに至れり。寛永年間本社火災に罹りて焼失す、明和6年京都円満院御染筆当社神号の額面を奉納せらる明治3年池田二位中将御紋付幕及び提灯を奉納す、明治5年2月郷社に列挌せられ同40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、大正6年12月24日本庄村大字本庄字福元鎮座地無各社北野神社(祭神 菅原道真三上豊範)を合祀せり、祭神 菅原道真は天正年中より奉祀し道竹城主三上兵庫頭豊範は宝暦六年地方民八幡宮と崇敬奉賽せり。境内なる稲荷神社は寛永年間末社として創祀し明治初年本社に合併、次いで明治12年再び復旧末社として奉祀す。尚当社に因幡小鍛冶景長の一刀あり応永年間景長立願により自ら奉納せるものなり明治40年東宮殿下山陰に行啓せられし際臺覧に供せり。 鳥取県神社誌 |