「天武天皇御宇白鳳4年(676)奉幣勅使有り、其時本使清原氏官人一人、副使賀茂神人従五位一人、神官玉造朝臣刑部介春連従五位にて下向、其時金銭二百七十五文御備有」と伝わる。 神社の背後は上ノ山城跡となっている。直ぐ南西に岩山城があり、その出城とも考えられる。しかし城主など詳細は不明。 |
恩志呂神社 延喜式所載の小社なり。後又武王大明神と称す、因幡誌に「武王大明神、延喜式神名帳に載る所恩志呂神社是也、按するに凡そ神名帳に載る所當國神社人名は其地の名を呼ぶ者多し、又人の名或は人の姓氏を呼ぶもの是に次ぐ、今此地を恩智と云ふ是旧人の姓名なり 姓氏録曰 恩智の神主高魂命の児伊久魂命の後なり 神號恩志呂は恩智の転訛か、又地名を称するにや」と記せり又因幡國民部省図帳に「曰恩志呂大明神寛治2年戊辰11月依小野篁之私願自宇佐郷遷座也」云々といへり此の他当神社記録に天武天皇御宇白鳳4年奉幣勅使有り其時本使清原氏宮人一人副使賀茂神人從五位一人神官玉造朝臣刑部介春連從五位而下向其時金銭二百七十五文御備有此儀神榮記ニ詳ニ有之云々と有り。昭和3年11月10日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 鳥取県神社誌 |