この神社の本殿裏に、大きな石がある。玄武岩でできていて、「東風(こち)石」と呼ばれている。以前は、宝殿の中にあったが、中世今の場所に移した。 神功皇后が三韓出兵のとき出航の順風を祈ったところ、この石が二つに割れ、そこからさわやかな東風が吹き出したという故事による。さらに江戸時代、平戸藩は朝鮮通信使の接待を勝本浦でおこなった。しかし風待ちで逗留が続くと藩の財政が逼迫するので、必死でこの東風石に順風を祈願したという。 |
爾自神社 町私定有形民俗文化財 爾自神社の東風石と石灯篭 所在地 壱岐郡郷ノ浦町有安触979 指定 昭和52年3月10日 鎖国政策がとられていた江戸時代に、李氏朝鮮は日本にとって唯一の修好国であった。日本からまた朝鮮からの使節が往来し、友好関係を保った。なかでも将軍の代替りの度に慶賀の使節として来朝した、朝鮮通信使は有名で、300人から500人に及ぶ使節団の一行は、慶長12年(1607)以降、前後12回訪れている。 この通信使の一行は、江戸までの行き帰りに勝本浦に寄航し、平戸藩の接待を受けた。この時、海上が時化て勝本浦での逗留が続くと、藩はそのつど壱岐城代に命じて、当社の東風石に順風祈願を行わせたことが記録されている。 東風石には、神功皇后伝説があって、皇后が三韓出兵の折り、勝本浦に寄航するが、追い風が吹かないため、この石に順風祈願をすると、石は二つに割れてさわやかな東風が吹き出し、出船できたというものである。平戸藩はこの故事にならったのである。 東風石の大きさは、縦約3.90m、横約3.35m、高さ約2.70m、周囲約11.45m。 なお、二基の石燈籠には、寛文11年(1671)11月吉日の銘があり、寄進者は講中15人とある。 平成元年3月 郷ノ浦町教育委員会 社頭掲示板 |
爾自神社 江戸時代、鎖国政策下において朝鮮王朝は唯一の修好国でした。日本からまた朝鮮から使節が往来し、友好を結んでいました。なかでも将軍の代替りの度に、”慶賀の使節”として来朝した朝鮮通信使を通わす使節団は有名で、300人から500人で構成され、日本を訪れています。通信使の一行は、江戸までの行き帰りに勝本浦の寄港し、平戸藩の接待を受けていました。海上が時化(しけ)て勝本浦での滞在が続くと、その接待費で藩の財政を圧迫することから、藩は一日も早く出港することを願っていました。藩はその都度、壱岐国城代に命じて、爾自神社に順風祈願を行わせました。この東風石は「神功皇后が三韓出兵の折、勝本浦に寄港するが、出港にあたり順風が得られないため、この石に順風を祈願するとその石は二つに割れて東風が吹き出し、渡海できた」という云い伝えが伝承されていました。平戸藩はこの故事にならってこの東風石に祈願したものと思われます。延享5年(1748)3月、宝暦13年(1763)11月、宝暦14年(1764)6月の祈願のことが『壱岐名勝図誌』に記されています。東風石の前にある石橙籠には寛文11年(1671)と講中十一人の名前が刻まれています。講中十一人とあるものの、実際には15人の名前が刻まれています。お伊勢参りなど道中、船旅の海上安全を祈願し、それが成就しての献納したものと考えられています。 一支国博物館 |
村社 爾自神社 (旧号 東風大明神) 鎭座地 沼津村長峰字宮山 祭神 級長津彦神、級長戸辺神、息長帯姫命 大正5年8月左記ノ無格社ヲ合祀ス。 大神宮神社(天照大神、拷幡千々姫命、天手力男命) 禰宜山神社(御食津神) 立石神社(石野姫命) 神坂神社(祭神不詳) 国片神社(少彦名神) 例祭日 3月13日 神幸式、大神樂奉奏 境内地 1104坪 〔由緒沿革〕 社記ニ曰、神功皇后三韓征伐ノ御時壱岐島迄軍ヲ進メ玉ヒ順風ヲ析ラセ玉フ時ニ忽チ東風起リ容易ニ三韓へ御渡海アリ異敵ヲ平ゲ王ヒ御帰朝ノ後此処ニ風ノ神ヲ齋キ奉ラシメ玉フ社内ニ大石アリ東風石ト称ス後世絶エズ土俗東風ヲ此ノ神ニ祈リ霊験アリテ賽スル者多シ又國主ノ順風祈願セシ旨諸文書ニ見ユ当社ハ延喜第十神名帳ノ下ニ所載壱岐島石川郡爾自神社是也。尚当國十七社ノ一也。 一、当社ハ嵯峨天皇弘仁2年草創ニシテ文徳天皇仁寿元年詔シテ正六位上ニ叙シ奉ラセ給ヒシヨリ神階ヲ進メ奉ラルゝ事次ノ如シ。 一、陽成天皇元慶元年使中臣忌部両氏班幣大嘗会供奉也。 一、同8年大中臣氏人参向依所行大嘗会也。 一、朱雀天皇天慶3年所奉増一階。 一、白河天皇永保元年同。 一、崇徳天阜永治元年同。 一、高倉天皇治承4年同。 一、後鳥羽天皇元暦元年同増位、依平家追討之御祈祷也。 一、明治維新以前ノ例祭ニハ神幸式、流鏑馬、大神樂ヲ奉奏シ城代ノ代参トシテ馬廻衆ノ参向アリ。 一、正殿新築毎ニ國主ヨリ白銀五枚ヲ献納セラル。 一、明治45年6月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。 壹岐國神社誌 |