『壱岐国続風土記』に、「当社は嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔平旦、直に日輪の神勅を受けて神代の霊璽を写し奉り真の神体に象り渡し奉る云々」とあり。 延宝4年(1676)6月橘三喜は壱岐の式内神社の調査をしたが、その位置がわからず、石田町筒城に海神山(カイジン山)という地名があり、そこに小祠があるとしてそこに擬した。藩主鎭信は石祠を建て御正髄の木鏡を安置した。 |
海神社 当社は式内大、壱岐二十四座の一なり。 創立年代詳かならざるも此祭神、神功皇后西戒征伐の御時功をなし給うたので此島に祀られたのであろうと。 文徳天皇仁寿元年辛未春正月庚子詔して正六位上に叙し給う。清和天皇貞観元年正月27日従五位下海神に従五位上を授け給う。三代実録、陽成天皇元慶元年丁酉9月25日癸亥中臣忌部両氏を遣し幣を班給う。大嘗会供奉に依りてなり。朱雀天皇天慶3年庚子神位一階を進めらる。崇徳天皇永治元年辛酉秋7月同じく一階を、高倉天皇治承4年庚子冬10月、後鳥羽天皇文治元年乙巳3月3日平家追討の御祈りにて同じく一階を進めらる。 『壱岐国続風土記』に、「当社は嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔平旦、直に日輪の神勅を受けて神代の霊璽を写し奉り真の神体に象り渡し奉る云々」とあり。 『壱岐名勝図誌』に「海神社在海神川上一名戀川とも、石祠末向延宝年中源鎮信朝臣奉絹也(中略)当社は神明式に所載の石田郡海神社大なりとせり。(故考に西の流川を里俗あまうづといい天水雨水などの字をあてたれども海水の義なるぺし海ノ神社によれる名ならん)」とあり。 『壱岐国神社考』に「此地大社の建し所とも見えねば今の宗社八幡宮是則式の海神社なるべし云々」とあり。 石田町史 |
無格社 海神社 鎭座地 石田村大字筒城西触 祭神 豊玉彦命 例祭日 11月4日 神幸式、大神樂奉奏 境内地 1116坪 〔由緒沿革〕 一、当社ハ式内大、壱岐國廿四座ノ一ナリ。 一、創立年代詳ナラザレドモ此ノ神、神功皇后西戎征伐ノ御時功ヲナシ給ヘルニ依リ此ノ島ニ祀ラレタルモノナルベシ。 〔三代実録二巻〕ニ貞観元年正月22日壱岐島從五位下海神從五位上トアリ。 一、陽成天皇、元慶元年丁酉9月25日癸亥中臣、忌部両氏ヲ遣シ幣ヲ班給フ、大嘗会供奉ニ依リテナリ。 一、朱雀天皇天慶3年庚子神位一階ヲ進メラル。 一、白河院永保元年辛西3月、同ク一階ヲ。 一、崇徳天皇永治元年辛酉秋7月、同ク一階ヲ。 一、後島羽天皇文治元年乙巳3月3日、平家追討ノ御祈リニテ同ク一階ヲ進メラル。 当社ハ古來壱岐國人ノ崇敬厚ク衰徴セル神社ノ発展ト尊嚴ヲ保持セン爲崇敬者維持費ヲ積ミ大正11年春先ヅ石烏居ヲ建設セリ。 毎年例祭ニハ神幸式ヲ行ヒ神徳ノ発揚参拝者誘致ニ努メ居レリ。 壹岐國神社誌 |