社記によれば、神功皇后の三韓征伐にあたって(成務天皇のときとも伝)、渡良浦の鹿ノ辻(渡良浦と郷ノ浦の中間地点)に祀らえた。 その後、神社の前を通る船は帆を下げて畏敬の念を表明したが、違反する船は神罰を蒙った。 そのためのちに海から離れた当地矢櫃山に遷座されたという。 延宝の神社改め以前は、この神社のことを、荒波加大明神とか、蓬の宮(ふつのみや)と、呼んでいた。蓬(ふつ)と布都とをかけて、この神社は、物部布都神社ではないかともいわれている。 |
国津神社 旧渡良村の氏神であって壱岐二四座の一つである。神功皇后が三韓征伐の折、当村の鹿ノ辻に立ち寄られ霊験があって神殿を造った。のち、当地に造営したという。明治の神社改制までは祠官二名を置いていて(川瀬氏、三富氏)、国主や藩主の崇敬も篤く例祭日には代理が必らず参拝し、たくさんの献上があがっていた。明治40年には神饌幣帛料供進神社に指定されている。 郷ノ浦町史 |
村社 國津神社 (旧號 荒波加大明神) 鎮座地 渡良村南触字宮之浦 祭神 足名槌命、手名槌命、奇稻田姫命 配祀 武甕槌命 例祭日 11月10日 神幸式、流鏑馬、大神楽奉秦 境内地 645坪 〔由緒沿革〕 当社ハ渡良村ノ氏神ニシテ延喜式神明帳所載石田郡國津神社是ナリ壱岐二十四座ノ一又同十七社ノ其ノ一也。 社記曰、往昔神功皇后三韓御征伐ノ時当村漉之辻ニ瑞奇ノ霊験アリテ神殿ヲ設ケタリト、後世ニ至リテ現在ノ地ニ宮殿ヲ遷セリト伝フ。当社ハ嵯峨天皇弘仁2年ノ草創ニシテ文徳天皇仁寿元年詔シテ正六位上ニ叙シ奉ラセ給ヒシヨリ神階ヲ進メ奉ラルゝ事次ノ如シ。 一、陽成天皇元慶元年 使中臣忌部両氏班幣依大嘗曾供奉也。 一、同8年大中臣氏人参向依所行大嘗會也。 一、朱雀天皇天慶3年所奉増一階。 一、白河天皇永保元年同。 一、崇徳天皇永治元年同。 一、高倉天皇治承4年同。 一、後島羽天皇元暦元年同増位依平家追討之御祈祷也。 一、当社ハ從前祠官二名ヲ置ケリ即チ川瀬氏三冨氏是ナリ 明治維新神社改制ノ際迄並立セシ者也。 一、当社例祭ニ鳥居ニ将ヲ結ビ公文ノ参向ノ時将ヲ解キ夫レヨリ祭事ヲ始メシ者也、此儀式明治初年迄行ハレタリ。 一、延宝4年6月國主ヨリ木鏡ノ神体及島居ノ石額ヲ奉献セラル。 一、当社ハ藩主ノ崇敬篤ク例祭日ハ代参トシテ馬廻衆参向アリ又新御造営ノ節白銀五枚ヲ献ゼラルヲ例トセリ。 一、明治40年7月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。 壹岐國神社誌 |