興神社
こうじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】天手長男神社(名神大) 壱岐島 石田郡鎮座
   【延喜式神名帳】与神社 壱岐島 石田郡鎮座

   【現社名】興神社
   【住所】長崎県壱岐市芦辺町湯岳興触 676
       北緯33度46分11秒、東経129度43分54秒
   【祭神】帶仲彦天皇 息長足姫尊 應神天皇 仁徳天皇 天手力男命 八意思兼命 住吉大神
   【例祭】4月13日 例大祭
   【社格】旧村社 壱岐国一宮
   【由緒】弘仁2年(811)10月1日鎮座
       仁寿元年(851)正六位上
       永禄9年(1566)造営「湯岳村印鑰大明神」
       慶安2年(1649)8月造営
       明治9年12月村社
       明治40年7月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「印鑰大明神」「国府美也」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

この地には壱岐国府があったと考えられており、社名の「興」は「国府(こふ、こう)」の意味とされる。国府の印と倉の鍵である「印鑰(いんにゃく)」を保管していたことから、近世には「印鑰神社」とも呼ばれていた。境内の壱岐総社神社は壱岐国の総社にあたる。
延宝4年(1676)、神道家橘三喜が壱岐の式内社を調査した際に、当社を式内小社「與神社」に比定した。しかし、これは興と與(与)を見誤ったためと考えられており、近年の研究では、式内名神大社の「天手長男神社」が当社であり、壱岐国一宮であったとする説が有力となっている。



興神社

興神社 由緒沿革
主祭神 足仲彦尊,息長足姫尊
相殿 應神天皇、仁徳天皇、天手力男命、八意思兼神、住吉大神
例祭日 4月13日 神幸式大神楽奉奏
由緒沿革
一、 当社は延喜式第十巻神明帳書載の壱岐嶋石田郡興神社である。社記に言う。往古壱岐伊宅郷国名村(湯岳村)国の一宮国分社で又官庫の鑰政所の印を納めていたので印鑰大明神と称したとある。
一、 神明記には興神社こう村以前は印鑰大明神式内社とある。
一、 神社帳には湯岳村久保頭興神社一宮とあり式内二十四座の内宝殿拝殿あり神主吉野数之進とある。
一、 嵯峨天皇弘仁2年10月(1200年前)朔日御鎮座で文徳天皇仁寿元年(1140年前)正六位上に叙せられ以後十回にわたり各一階づつ神階を進めされ給う。
一、 永禄9年(440年前)宝殿再建 松浦肥前守源隆信公の棟札あり。
一、 同13年 拝殿再建 松浦肥前守源隆信公。
一、 慶安2年(340年前)国主松浦肥前守鎮信公 木鏡及石額奉納せらる。
一、 社記には例祭日の前夜大神楽翌例祭日には国主名代兵具や幣帛を献上するとあり又女池の行宮に渡御ありと記されている。
一、 壱岐七社の一つで明治9年12月4日村社に列せらる。
一、 明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
(平成2年 御大典記念事業)

社頭掲示板



興神社

当社創建の際より延喜式に登録され給ひし頃までは天手長男神社と称せしが後に佛説の習令の為に国衛の印鑰保管等の関係によりて印鑰大明神と唱へ奉り又一面には国府所在のために国府宮とも呼び来りて延宝4年査定の時本来の天手長男神社の称呼が廃れて社号を伝へざるために遂に過りて当社を以て式内小神與神社なるべしとして遂に興神社と決定し天手長男神社は新に物部村に勧請するに到れるものなりといふに帰著す。然れども其一の宮なる通称は今にこれを存し、又大七社の崇敬は明治維新後廃藩と共に止みたりと雖、民間に於ける大七社の信仰は更に衰ふる所なし云々

『壱岐神社誌』



興神社

『神社明細帖』に「興神社、旧平戸藩別段崇敬七社ノー也、但式内氏子アリ」「勧請年暦不詳一説嵯蛾天皇弘仁2年辛卯(811)冬10月1日鎮座奉ル云々延宝調前国府社トモ印鑰大明神トモ称。社地二反八畝十二歩、但無税。造営民費、白銀七枚平戸藩寄附金国中民費。「攝社一社総社神社」、『壱岐国神社田畑帳』に「興神社、宗廟、社領高二石祭米六舛六合、定祭8月13日御代参有り」と記している。
永禄9年(1566)2月松浦隆信押字の棟札「上棟襲奉再興印鑰大明神御宝殿一宇」や慶安2年(1649)8月松浦鎮信押字の棟札「上棟奉造営壱岐郡印鑰大明神御宝殿一宇」にも見られるように、印鑰大明神と呼ばれ、また当国一ノ宮(神社帳)とも言われており、興神社とは呼ばない。延喜式巻十の壱岐島二四座の中に名神小「與神社」があり、「延宝年中式社改の時、与神社を興神社と心得、興といふ地名によりて、印鑰大明神を興神社」(『名勝図誌』)と誤ったと思われる。『壱岐神社誌』も「当社創建の際より延喜式に登録され給ひし頃までは天手長男神社と称せしが後に佛説の習令の為に国衛の印鑰保管等の関係によりて印鑰大明神と唱へ奉り又一面には国府所在のために国府宮とも呼び来りて延宝4年査定の時本来の天手長男神社の称呼が廃れて社号を伝へざるために遂に過りて当社を以て式内小神與神社なるべしとして遂に興神社と決定し天手長男神社は新に物部村に勧請するに到れるものなりといふに帰著す。然れども其一の宮なる通称は今にこれを存し、又大七社の崇敬は明治維新後廃藩と共に止みたりと雖、民間に於ける大七社の信仰は更に衰ふる所なし云々」としている。社殿造営ごとに国主より白銀七枚の寄進を受けていることからも、それは明らかである。
明治9年(1876)12月村社となり、明治40年7月には神饌幣帛料供進神社に指定された。例祭は4月13日。

芦辺町史



興神社

興神社は905年(延喜5)の勧請から1676年(延宝4)の橘三善による式内社の査定までの770年間は印鑰宮(いんにゃくぐう)大明神を祀ってありました。今でも境内に「印鑰宮」と書かれた鳥居石額が小さな祠(ほこら)に祀られています。”印鑰宮”とは「国司の印を納める庫の鑰(かぎ)を祀る社」といわれています。壱岐では8世紀代は芦辺町国分地区に壱岐国分寺が設置されていたことまでは分かっているものの、国府の位置は定かではありません。この「印鑰宮」ある湯岳周辺に国府が移った可能性が推測されています。近くには覩城もあることから、中世から近世にかけて重要な地であったことをうかがえます。また、石鳥居は藩主松浦鎮信(まつうらしげのぶ)公の奉献によるもので「鎮信鳥居」と呼ばれる反増(そりまし)が笠木の中心から反り上る特殊な型をしています。

一支国博物館



村社 興神社

(旧號 印鑰大明神國府宮)
鎭座地 那賀村大字湯舟興触
祭神 足仲彦尊、息長足姫尊、応神天皇、仁徳天皇、天手力男命、八意思兼神、住吉大神
例祭日 4月13日 神幸式 大神樂奉奏
境内地 997坪
〔由緒沿革〕
1、当社ハ延喜式第十巻神名帳ノ下ニ所載ノ壱岐嶋石川郡興神社ナリ。
社記ニ曰、往古一岐伊宅郷国府村国ノ一宮国府社又印鑰大明神ト称ス王政ノ御時官庫ノ鑰及國府政所ノ印ヲ納ムル故印鑰大明神ノ社號アリト云フ。
一、神名品書ニ湯岳コウニ印鑰大明神トアリ。
一、神明記ニ興神社コウ村改以前ハ印鑰大明神ト云フ式内
一、神社帳ニ湯岳村久保頭興神社小神古來当國一之宮卜號スニ十四座ノ内有宝殿拝殿定祭8月13日神主吉野数ノ進トアリ。
一、嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔日平旦直ニ日輪ノ神勅ヲ承ケ神代ノ霊璽ヲ写シ奉リ真ノ神躰ニ象リ移シ奉ル。
一、文徳天皇仁壽元年正月正六位上ニ叙セラル、以下神階ヲ進メラレ給フコト式内大社ノ例ニ依レリ。
一、永禄9丙子年宝殿再建棟札一字降信公在判。
一、永禄13年8月拝殿再建棟札一字右同慶安2己丑年宝殿再建棟札一字鎮信公在判。
一、延宝4年丙辰6月朔日國主源鎮信公木鏡及石額ヲ奉納セラル。
1、社記ニ曰、例祭毎年8月12月夜大神樂13日國主名代諸兵具ヲ献ジ奉幣等ノ儀式アリ女池ノ行宮ニ渡御アリ國中諸社ノ最初ナレバ俗ニ一ノ祭ト云。
一、神社考ニ、古來壱洲七社ノ祭礼ハ8月13日ニ始マリ
17社ノ祭礼ハ9月10日渡良村國津神社ニ始マリ同29
日立石村熊野神社ニ終ル社領二石社殿造営ノ節ハ國主ヨリ白銀七枚寄進セラル。
一、明治9年12月4日村社ニ列セラル。
一、明治40年7月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。

壹岐國神社誌



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