当初、山上に祀ったが、祭祀の不便から、麓に社殿を造営したと伝。 『芦辺町史』では、延宝4年の橘三喜の式社査定以前は、式内であったとしている。 |
覩上神社 『神社明細帖』に「覩上神社、旧平戸藩崇敬十七社ノ一也、但式外氏子アリ」「社地二反八畝二十一歩、無税。造営白銀五枚旧平戸藩寄附、氏子民費」「摂社中辻神社、末社神石神社、八皇子神社」、『壱岐国神社田畑帳』に「妙見宮、宗廟、社領高七斗三舛祭米四舛四合、定祭9月26日御代参有」と記されている。 寛永14年(1637)4月松浦隆信、忠生押字の棟札に「襲奉再興妙見宮御宝殿壱宇」また、慶安2年(1649)9月松浦鎮信押字の棟札に「襲奉再興湯岳村山方村妙見宮御宝殿一宇」と見えるように、当社は「妙見宮」とも呼ばれている。そうして、「妙見宮小神改正以前ハ式内」(『神明記』)であったが、延宝4年(1676)の調査により式外と定められたのである。このことについて、『壱岐神社誌』も『当社創建当初にありては「とかみ山」鎮座覩上神社として延喜式に登録せられしが過りて見上神社と誤記せられ給ひしも事実は「とかみ神社」として「とかみの辻」「とかめ河」などと共に存在し、中古両部習合説に胚胎し又は温泉湧出の関係等によりて妙見宮と称せられしも従来国主が十七社の一として崇敬し造営毎に白銀五枚を寄進せし事などに徴し且つは延宝以前「とがみ神社」を塗神と称せし等の事実によりて知る事を得ぺし。然るに彼延宝4年査定の時橘三喜が思ひを茲に致さず社号の研討をなさずして軽々に式外と査定し去りしは遣憾に堪へず』と述ぺている。 鎮座については諸説があるようである。『神社帳』に「住吉長宇土に出現坐而後今之社地奉遷」とされるが、『続風士記』は更に詳しく「当社はしめハ那珂郷の農長の向の山中にましましかど神木の落葉をとるといへともはなはだとがめ給ひければ住吉邑の坪見といふ処に捨奉る其里人社を立これをまつる其捨奉るものの子孫断絶すされとも住吉邑にをいてもつよくとかめ給ひけれハ上山信の白岩といふ処にすて奉る其里人社を立これをまつる其後今の社地にうつしたてまつるともまたすみよしのうち長宇土にあらハれましまして今の社地にうつり給へりとも又はしめ住吉の長宇土に顕れましまし中葉上山信白岩に移り給ひて近世今の社地に宮柱太敷立とゝまりましますともいふ 今白岩の社地を古妙見といふ」さらに、『名勝図誌』は「当社ハむかし覩城築城の時、城域鎮護のため祭鎮りし社なりとも。又一云、素神、大己責命を悪魔除伏、疫癘防禦のため此地に祭鎮しと」などと記している。 明治9年(1876)12月に村社となり、大正2年(1913)11月神饌幣帛料供進神社に指定された。例 祭は10月26日。 芦辺町史 |
覩上神社 (旧号 紗見宮) 鎭座地 那賀村宇湯岳辻ノ米 祭神 素盞鳴尊、奇稲田姫命、大己貴命 例祭日 10月26日 境内地 1008坪 〔由緒沿革〕 一、社記ニ曰、古來妙見宮ト称シ、式内社タリシガ延宝4年ノ調査ニ依リ式外ト定メラル。 一、神明記ニ曰、妙見宮小神改正以前ハ式内ナリ。 一、神社帳ニ湯長村トカメ川妙見宮本社有宝殿拝殿定祭9月26日神主後藤儀部同左内。 一、定祭ニ國主名代郷待社参ス流鏑馬アリ享保8年神幸ノ願叶ヒテ翌年ヨリ始マル社殿造営毎ニ國主ヨリ白銀五枚寄進セラル。 一、社領二石他社ニ同ジ。 一、当社始メハ中野郷ノ農長ノ南帯田山ニ座セリ神木ノ落葉ヲ採ルト難咎メ給フ故ニ住吉村ノ坪見ト云フ所ニ遷座シ奉り後又同村山信ノ白岩山ニ移シ奉ル其所ヲ古妙見ト云フ後二今ノ地ニ遷座シ奉ルト云へリ。 一、寛永14年丁丑4月御殿造営アリ、棟札一宇妙見宮再建本願主深見助左衡門實吉判神主後藤彌一郎 一、慶安2年乙丑9月御殿造営アリ、妙見宮宝殿一宇ノ事源朝臣鎭信押字。 一、延宝3年乙卯12月御殿内殿造替アリ妙見宮御宝殿一字ノ事松浦朝臣鎭信押字。 祠官後藤主水社記ニ曰、当社ハ以前諸吉社務ノ兼摂ニシテ慶長7年諸吉熊野権現社務後藤民部清光三男木工左衛門正廣始メテ当社ノ神主トナリ妙見宮椎木大明神六社神社志原村大石峰神社貴布禰神社ノ五社ノ兼務トナリシヨリ起リ明治維新マデハ諸吉村後藤氏ト湯岳村後藤氏ト両人社務ニ從事セリ。 一、明治9年12月4日村社ニ列セラル。 一、大正2年11月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。 壹岐國神社誌 |