仲哀天皇9年(200年)10月、神功皇后は壱岐に着き、順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵されました。同12月、三韓からの帰路再び立ち寄られ、出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたという。 |
聖母宮 【由緒】 仲哀天皇9年(200年)10月、神功皇后は壱岐に着き、順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵されました。同12月、三韓からの帰路再び立ち寄られ、出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたといいます。 当社は三韓出兵の帰路、異賊の首を海中三町余に沈め、その上に九町八反の築地を築き、神符を掛け五間四面の宝殿を造立、末世異賊の競望断絶を祈願された皇后一夜の霊地です。 又、皇后は三韓出兵の往来の時にこの地に行宮を建てられましたが、そのまま放置されていました。しかし、毎夜海中より光る物が昇り、燈火の如く静かに、しばらくして火燃えて、また海中に入るという出来事が続いたので、里人はその行宮に神鏡を納め神功皇后を奉ったといわれます。 元正天皇、養老元年(717年)、国家鎮護を祈願され勅下りて神殿造立。 同、養老4年(720年)勅使を遣わされ三国の聖母廟に於いて異賊退散の祈願あり。同、養老5年(721年)、異敵襲来の時奇端霊験あり依って勅下り神殿再興。聖武天皇、神亀元年(724年)、勅により神殿再興。 淳仁天皇(761年)天平宝字5年、鎮西に五社の再興あり。当社はその一つなり。桓武天皇、延暦6年(787年)、異賊襲来の時、異賊降伏祈念の為、社檀を築き奉る。御霊形・金鏡三面、中は神功皇后左右相殿に仲哀天皇、応神天皇を祀る。 延宝4年、式内社査定の折、過ちありて式内としての社号をこの時より失う。しかし古来より国主の崇敬厚く、壱岐国七大社の一つとして、又壱岐国二の宮と称され国主直参の社である。 【附記】 筑前香椎宮の編年記に香椎廟の四至のことが記されている。「詔テ神鏡ヲ附シ玉フ。東は鴨山、西ハ壱岐、南は住吉、北は尾呂。コレヲ四限トセリ。」 《西ハ壱岐》とは勝本の聖母宮のことで、脈絡相通う関係があったと思われる。聖母宮は古くは香椎宮を称し地名はその鎮座地にちなんで、香椎村と称していた。また、足利尊氏将軍家よりの感状、神領受領の判書、古書記録など、慶長19年に平戸の松浦藩家臣佐川主馬来島の際応命により差し出した所、返却のないままとなった。往昔より、度重なる異賊襲来の時、勅使が遣わされ国家擁護、敵国降伏を祈願された社である。 公式HP |
聖母宮 旧号 香椎大明神 聖母大菩薩 鎮座地 壱岐郡勝本町勝本浦正村 祭神 息長足姫尊(神功皇后) 足仲彦尊(仲哀天皇) 誉田別尊(応神天皇) 住吉大神 配祀 天照大神 由緒 『壱岐名勝図誌』によると、仲哀天皇の9年神功皇后は肥前唐津の神集島で三韓出兵の勝利を祈願し、土器崎より壱岐に向けて3270艘の軍船を出発させた。 この時、船が進むのにつごうの良い東風が吹きはじめた土器崎の地を風本と名づけ東風が吹きゆく壱岐の方向を風早と名づけた。 壱岐すなわち風早の島についた皇后は風まちをして対馬の鰐津に向けて出帆した地を風本と名づけ、三韓からの帰りに再び立ち寄られ出兵の勝利を祝い勝本を改められたという。 皇后は、出兵の往来にさいし行宮を勝本に建てられたが、御殿はその後放置されてしまった。 しかし毎夜海中から光る物があがってくるという出来事が続いたので里人は鏡を御殿に納めて神功皇后を神としてしまつったのがこの神社であると伝う。 また、一説には異敵の首101、500を持ち帰った皇后は、風本の浜に穴に掘って埋められ、九町八反の築地を一夜で築きその上に宝殿をつくり、聖母の社を建てられたとある。 文化財 昭和47年に長崎県指定有形文化財とされた茶壺が有名 壺の銅部に『進入、日本いきしま、風本宮、聖母大菩薩、御神物ちやいれ、是ヲ心サス、喜斉、百良内村生、宗沙門(花押)天正20年 敬白』の銘がある。 その他に数多くの文化財が伝えられているが神社の西門と南門は豊臣秀吉の朝鮮出兵の折りに、加藤清正と鍋島直茂によって造営寄進されたと伝えている。 この西門(正門)の前方には、神功皇后の御乗馬の足跡がのこるという馬蹄石がある。 社頭掲示板 |
村社 聖母神社 (旧称 香椎大明神、或ハ聖母大善薩) 鎭座地 勝本町大字可須勝本浦字正村 祭神 息長足姫尊、足仲彦尊、誉田別尊、上筒男命、仲筒男命、底筒男命 配祀 天照皇大神(明治45年4月神明神社合祀) 例祭日 自10月10日至14日 境内地 542坪 〔由緒沿革〕 一、抑当社ハ神功皇后三韓征伐御往来ノ時ノ御着津ニシテ三韓ヨリ帰リマスノ時此地ニ異賊ノ首ヲ埋メ其上神符ヲ掛ケ末世異賊ノ競望ヲ断絶ム事ヲ誓給フ、所謂皇后一夜建立ノ霊地ナリ。因ツテ皇后神退リシノ後彼所ニ社壇ヲ設ケ本朝平安異国降伏ノ守護神ト崇奉ル。然後元正天皇養老5辛酉年8月異敵襲來ノ時奇瑞霊験有リシニ依リ勅使ヲ使ツテ再興亦同ジク勅願ニヨリ淳仁天皇天平宝字5年鎭西五社ノ再興アリ、当社其一ナリ。 一、玉殿ヲ乾ニ向クルハ異賊降伏ノ支証ナリ。泉后右足モテ賊骨ヲ踏ミ社前ノ石而ニ印シ給フ其西ニ向ハ是異國ガ未來ノ競望ヲ断テ本朝ヲ鎮護スル也。皇后ノ龍馬ノ両蹄石ガ(鳥居左脇)東ニ向ヘルハ即チ本邦ヲ擁護シ給フ也 一、香椎邑風本浦香椎聖母宮ハ神亀元年甲子再興アリト部高巣ガ齋キ奉レル所ナリ、此所ヲ香椎宮卜称シ又聖母大明神ト申ス。 一、桓武天皇延暦6年8月3日異賊襲來ノ時異賊降伏祈念ノ為社壇ヲ築キ奉ル。 御霊形金鏡三画。中ハ神功皇后左右相殿ニハ仲哀天皇応神天皇ヲ祀ル。 一、養老4年8月14日異賊数萬艘本邦ニ襲來ス、時ニ大風俄ニ起リ異船ヲ即減セシム。茲ニ因テ異賊ノ魂魄ヲ救ハンガ爲ニ放生曾ヲ行ハル。諸社ノ放生曾此ノ時ヨリ始マル。毎年旧8月14日ヲ以テ聖母宮ノ祭日ト定ム。 此ノ日必北風強ク起ル俗ニ之ヲ聖母ノ北風ト称ス。 一、皇后10月朔日壱岐ニ到リ可須郷西北ノ海浦ニ著キ給フ時ニ連日西風頻ナリケレバ皇后風神ヲ祈リ給ヒシニ東風起リテ三韓ニ渡リ給フ。依ツテ其ノ地ヲ風本卜名ヅケ給フト。 一、社記曰壱岐國壱岐郡可須庄香椎郷風本勝本之聖母神社者神日本磐余彦尊之十四世足仲彦尊之皇后氣長足姫尊也後足仲彦尊誉田別尊海神住吉武内玉垂命奉合祭相殿当社之地者氣長足姫尊征伐三韓時御往来之御着津行宮其儘立置所此地行宮毎夜自海中昇光物如燈火静暫燃火亦海中依之氣長足姫尊三御治世之時於其行宮五間四面之御殿奉納神鏡奉祝祭氣長足姫尊行宮為御宝殿奉崇神明者世珍目出度御社也云々。 一、抑当社ハ式内ノ社ナリシモ延宝年間旧藩主ノ命ニテ式内調ベノアリシ時室町幕府末葉ヨリ別当ノ起ルアリテ後年コレガ爲幾多ノ交渉ヲ生ジ聖母神社ノ社號ガ式内社ニ恰当スルモノナキニヨリ過リテ其撰ニ洩レタリ。然レドモ古來民間慣行ノ崇敬壱岐國大七社ノ一ニ算セラレ給フハ即チ延喜式大七社ノ一ナル事ヲ有力ニ物語ルモノニ外ナラズ。況ンヤ皇后ノ三韓征伐ノ時ノ遺跡ナル事ハ地理上及航海上ノ推歩ニヨルモ之ヲ否認スルコト能ハザルナリ、又壱岐二ノ宮卜称シ藩主ノ崇敬タル七社ノ一ニシテ直参ノ社ナリ、式社沿革考ニ曰ク聖母神社ハ式内中津神社ナルベシト。 一、大永6年内秘殿浜床造替。波多壱岐守源朝臣盛公在判。 一、慶長17年拝殿造替。松浦式部卿法印宗静公源三郎源朝臣信公同豊後守信実公在判。 一、元和6年宝殿造替。松浦肥前守源朝臣隆信公同豊後守信実公(棟札現存) 一、明暦4年宝殿造替。松浦肥前守源朝臣鎭信公在判(棟札現存)。 一、宝永元年拝殿造替。從五位下松浦壱岐守源朝臣棟公在判(棟札現存)。 一、延宝4年木鏡御正躰御寄進。松浦肥前守源朝臣鎮信公在判。 一、宝暦2年宝殿造替。松浦肥前守源朝臣誠信公在判(棟札現存)。 一、明和3年拝殿造替。松浦肥前守源朝臣誠信公在判(棟札現存)。 一、弘安4年上略祈諸顧8月朔神風破賊船奉寄進壱岐譜社可須郷香椎宮領 一、永録10年社領貮反壱貫文 一、慶長13年神領二石七斗四升 一、旧藩主ヨリ寄進ノ社領二石及社殿再建ノ都度白銀七枚奉納 一、松浦肥前守源朝臣鎭信公延宝4年丙辰4月21日石鳥居建立、享保11丙午歳9月23日修覆、天明7丁未7月10日再修覆。 一、文禄元年加藤主計頭朝鮮陣渡海ノ節逆風ノタメ逼留ノ間ニ社地ノ廻り海岸ニ石垣ヲ築造寄進 一、社伝ニ曰当社表門ハ文禄元年4月加藤肥後守ガ造営寄進スル所ニシテ門標ニ清正ノ家紋「蛇ノ目」ヲ彫刻ス、然ルニ明和5年勝本富豪土肥市兵衡ノ表門ヲ改築スルニ方リテ土肥ノ家紋「蔦ノ紋」ニ改メタリト、又裏門ハ肥前守鍋島氏ノ造営寄進スル所ニシデ「抱キ茗荷」ノ紋所ヲ刻セシガ之ノミハ改創ヲ菟レテ今日ニ及ブト。 一、国主松浦氏告文二通(現存)。 一、祭礼神輿奉担駕丁ニ関スル記録左ノ如シ。 右ノ故ニテ二ノ神輿ヲ国輿トモ郡輿トモ称ス。是少貮氏ノ幕下佐志壱岐守源義九十四町領ノ時ノ旧例也トゾ、毎年8月10日神輿ヲ本浦宮所ニ渡御ナシ奉リ13日夜離宮所ニテ大神楽ヲ奏シ14日還御、國主ノ名代参向奉幣及神幸船競争囃子ノ儀式アリ、浮殿ニ坐セ奉ル間勝本ノ浦人ノ手踊狂言ナドヲ執リ行ヒ國内貴賤参詣スルモノ多シ。(名勝図誌ヨリ) 一、祭米六升六合五毅成就米参斗 一、明治9年村社ニ列セラル。 一、明治45年4月無格社神明神社合紀。 一、大正5年10月13日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。 一、大正7年3月28日北白川宮成久王殿下御参拝アラセヲル。松一株御手植遊サル。 壹岐國神社誌 |