兵主神社
ひょうずじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】兵主神社(名神大) 壱岐島 壱岐郡鎮座

   【現社名】兵主神社
   【住所】長崎県壱岐市芦辺町深江本村触1616
       北緯33度46分45秒、東経129度44分41秒
   【祭神】素盞嗚命 大己貴命 事代主命
   【例祭】10月20日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】弘仁2年(811)山城国日吉山王を勧請
       仁寿元年(851)正月正六位上
       永緑10年(1567)4月28日の棟札に山王三七社
       慶長8年(1603)4月29日の棟札に日吉山王三七社
       延宝4年(1676)橘三喜当社を式内聖母神社に査定
       延宝7年(1679)当社を兵主神社と比定
       元緑4年(1691)2月国主源任御旗二流を寄進
       賓永4年(1707)11月国主源棟御矛二本を寄進
       正徳5年(1715)正一位
       明治9年12月4日村社
       大正3年6月神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録は無い

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「日吉山王権現」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・倉庫・神撰所

   【境内社】

本社はもと日吉山王権現であつた。それを延宝4年(1676)橘三喜は式内社の調査に際して、兵主神社を聖母神社に査定してその石額を新調し、聖母神社は日吉山王権現であると査定して、聖母神社の石額を外して日吉山王梅現に揚げしめた。
ところが延宝7年(1679)箱崎八幡宮祠官吉野末益は、聖母神社祠官後見として其の措置の非なるを陳べ、旧に復されんことを藩主に歎願した。茲に於て藩もその非を認め、日吉山王社に掲げた聖母神社の石額を外して聖母神社に返還し、新調された兵主神社の石額はそのまま日吉山王権現に掲揚された。
このため日吉山王権現は式内名神大社兵主神社と誤まられたまま今日に至つているわけである。
弘仁2年(811年)、山城国日吉山王を勧請した。比叡山から村の卯辰の海辺一の瀬に到着し、今の京徳の丘である谷山に鎮座した。この際の勧請の供をしたのが、京徳・甫久・大宝の三氏で、当社家となった。


兵主神社

壱岐國式内名神大社 ●旧村社 兵主神社 (別名日吉山王権現)
 鎮座地 芦辺町深江川北
 祭 神 素盞嗚尊 大己貴神 事代主神
 例祭日 10月20日
 境内地 884坪
〔由緒沿革〕 〔正一位兵主神社〕
一、当社は延喜式巻十神名帳に所載ノ壹岐嶋壹岐郡兵主神社名神大社なり。
一、神社帳に曰、河北村京徳ノ辻兵主神社大二十四座ノ内有、宝殿拝殿、定祭9月25日神主後藤淡路、宮司大河庄太夫。
一、嵯峨天皇、弘仁2年幸卯冬10月朔日平旦直に日輪の神勅を承け神代の霊璽を写し奉り。眞の神躰に象り移し奉る。
一、文徳天皇、仁壽元年正月、正六位上に叙せらる。以上神階を進められ給ふこと式内大社の例に依れり。
一、社領高二石、社殿再建毎に國主より白銀五枚寄進せらる。
一、明治9年12月4日 村社に列せらる。
一、大正3年6月 神饌幣帛供進神社に指定せらる。
一、昭和53年9月 拝殿改築なる。
一、昭和62年5月 神殿上屋、屋根替御改修。
一、平成5年9月 社務所新築なる。
平成5年9月

社頭掲示板



村社 兵主神社

(旧称日吉山王権現)
鎮座地 田河村深江
祭神 素盞鳴尊、大己貴神、事代主神
例祭日 10月20日
境内地 884坪
(由緒沿革)
一、当社ハ延喜式巻第十神名帳ニ所載ノ壱岐島壱岐郡兵主神社名神大社是ナリ。
一、神社帳ニ曰、河北付京徳ノ辻兵主神社大二十四座ノ内有宝殿拝殿定祭9月25日神主後藤淡路宮司大河庄太夫。
一、嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔日平旦直ニ日輪ノ神勅ヲ承ケ神代ノ霊璽ヲ写シ奉リ眞ノ神躰ニ象リ移シ奉ル。
一、文徳天皇仁寿元年正月正六位上ニ叙セラルゝ以下神階ヲ進メラレ給フコト式内大社ノ例ニ依レリ。
一、社領高二石社殿再建毎ニ国主ヨリ、白銀五枚寄進セラル。
一、明治9年12月4日村社ニ列セラル。
一、大正3年6月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。

壹岐國神社誌



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