往昔本宮和泉守橘貞兼熊野より迎へ奉りて勧請と伝。また、聖武天皇の7年遣唐使多治比廣成官命に依りて御鎭座なし奉るとも伝。 昔、足海(樽見、垂水とも)に着津したものを、この地の豪族橘氏によって奉斎されたと伝。 その前身が、湯本温泉の神、阿多彌神社ではなかったかといわれている。 延宝4年(1676年)、式社改めを行った橘三喜は、当時の当社神主だった橘廣貞の次男だった。橘三喜は、式内社「阿多彌神社」を、当時「アタミ畑」と呼ばれていた、立石東触の石神に比定した。しかしこの「アタミ畑」はアザミからの転訛で、温泉とは関係ない、という説が今では有力で、温泉のアタミの地である、当社が式内社ではないか、という。 |
熊野神社 熊野神社(旧号熊野大権現)由緒沿革 祭神 伊弉册尊、素盞嗚尊、事解男神、速玉男神 相殿 天照大神、国常立尊、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天津彦々火瓊々杵尊、彦火々出見尊 軻遇突知命、埴山姫命、罔象女神、稚産霊神、大山祇神 例祭日 十月二十九日 神幸祭、大神楽奉奏 浜殿ニ於テ餅ヲ撒ク、漁船パレード、假装行列 宮司 吉野六男 一、 壱岐風土記ニ言ウ、当社ハ紀伊熊野大神ト同体ナリ、往昔本宮和泉守橘貞兼熊野ヨリ迎ヘ奉リ勧請セリ 立石村ノ産土神ナリ 一、 昔熊野大神、足海ニ着給ヒシヲ、本宮和泉守橘貞兼迎ヘテ斎キ奉ル、刈田院新田ノ東ニ腰掛ケ給フ石アリ 呼ンデ権現石ト言エリ 一、 神社考ニ言ウ、立石村ノ海辺ニ温泉アリ昔ノ代ニハ地名ヲ「アタミ」ト言エリ、今ハ湯ノ本ト言ウ、温泉ニ近イ熊野権現ヲ湯屋権現トモ言エリ 一、 橘貞兼高麗征伐ノ勅命ヲ承リシガ熊野大神ンイ祈リテ帰朝ノ後、熊野ヨリ迎ヘ奉ル 一、 布代城主勧請シ奉ルトモ上川ノ居立石氏勧請ストモ言エリ 一、 聖武天皇7年(1260年前)遣唐使多治氏廣成官命ニヨリ御鎮座ナシ奉ルトモ言エリ 一、 左右矢大臣ノ銘ニ文明9年(520年前)願主同作者橘頼兼トアリ、頼兼ハ貞兼、忠兼、正兼等ノ裔ニシテ当社ノ社務ニ関係セシカ 延宝4年(320年前)国主ノ命ヲ奉ジテ壱岐国式内社ノ査定ヲナセル橘三喜ハ熊野神社、神主、立石刑部橘廣貞ノ次男ニシテ平戸ニ住シ神道国学者トシテ有名ナリ、境内ニ立花社アリ、橘廣貞ノ近親六柱ノ霊璽ヲ祀ル 一、 後光明天皇正保4年(350年前)御殿造営、願主、松浦肥前守源朝臣鎮信、神主、立石刑部橘廣貞 一、 寛文2年(330年前)御宝殿造営、松浦肥前守源朝臣鎮信、社司、堤主馬(刑部卿ノ弟) 一、 元禄2年大鳥居建設、祠官、神坂(堤)主水 一、 天保15年鳥居献納、長谷川栄左ヱ門 一、 当社ニ霊剱(銅鉾)一口アリ彌生時代又ハソレ以前ノ遺品ナリ外箱ノ銘ニ言ウ寛文11年松浦肥前守源朝臣鎮信 一、 蛇神、コレハ蛇ノ剱ニカラメル石像アリ昔王子五郎家ニ鶏ヲ飼ウ時ニ蛇来リテ之ヲ呑ム家人木ノ卵ヲツクリ之ヲアザムキシニ蛇木ノ卵ヲ呑ンデ苦シミタオル之ヨリ祟リアリ、故ニ蛇神ヲマツル後祟リ止ムト 一、 又、神鏡一面アリ徑五寸、コレヲ御神体ト伝フル旨社記ノ一飾ニ記セリ 一、 当社ハ藩主ノ崇敬社ニシテ祭日ニハ度々参向アリ御造営ゴトニ白銀五枚ヲ献ゼラル 一、 明治9年村社ニ列セラル 一、 明治10年石燈籠一対献納願主、氏子中、祠官、松永魚沖 一、 明治40年7月神饌幣帛供進神社ニ指定サラレル 一、 大正8年石垣改修、氏子中、社掌、殿川真彦 一、 昭和4年御殿拝殿新築、氏子中、社掌、殿川真彦、大工豊田八百四郎、大工武田力三郎 一、 昭和37年御手洗所建設、湯ノ本中、宮司、松永常彦 一、 平成1年拝殿修理、氏子中、宮司、吉野六男 平成2年11月 御大典記念寄進 立石西触 飯川熊多 90歳 社頭掲示板 |
熊野神社 国の重要無形民俗文化財 壱岐神楽と平戸神楽の由来と沿革 勝本町 熊野神社 宮司 吉 野 六 男 壱岐神楽の起源については、遠く七百年前の鎌倉時代とも又吉野朝時代とも伝えられているが、文献によれば、少なくとも室町時代の初期には既に大神楽が神前で奉納されていたようである。即ち今を去る570数年前第102代後花園天皇の永享7年11月(1429)神楽舞人数25名を記した吉野家文書により明らかである。更に530年前第130後土門天皇の文明4年(1472)11月28日、当時壱岐を領有していた波多氏の居城肥前岸岳城で、壱岐全島の社家等が竃祭に奉仕して大神楽を奏したとあり、このことは毎年行うを例とした。ついで430年前第106代正親町天皇の元亀元年壱岐は波多氏にかわり、平戸松浦氏の領有になるが、翌元亀2年(1570)波多氏領有時代に習って、壱岐惣神主吉野甚五左ェ門末秋社家二十余名を率いて松浦氏の居城で竃祭に奉仕、大神楽を奏したとある。翌元亀3年には壱岐の神主だけでなく、平戸地方の神主もこれに加わったため壱岐の神主の参加は12名程度に減じたものの、約280年前の享保年間の四ケ年中止となった年以外は、実に明治初年にいたるまで永い年月続けられた。 さて、神楽を舞う上に於ては神楽の曲目毎に神楽歌がある。この神楽歌は、遠い祖先が、神遊歌、古事記、日本書紀、日本紀、万葉集、三十六歌選集などの古典の中より引用してつくったと言われているが、時勢の変遷に伴い、この神楽歌詞も度々校正されたのである。文献によれば、350年前の明暦年間斯界の先覚者吉野藤十郎末益等が校正を試み、続いて安永年間、降って150年前の弘化3年の頃には、大体に於て根底は整えられたようである。末益博学多芸なれど叔父勝本祠官吉野尚忠、後見役従兄弟布気祀官吉野末行、末益の子季教等が補佐し、又物部祠官松本勘当、後年松本重足、後藤正恒翁等其の志をつぎ、力を合わせ神楽歌を改正し大成せられ、更に明治維新を経て、大正7年9月には壱岐郡神職会によって、神楽歌の統制を見るにいたったのである。 壱岐神楽の種別には幣神楽、小神楽、大神楽、大々神楽(磐戸神楽)の四種類があるが、通常神社の例祭日に奉納するのが、大神楽である。この神楽は4時間位の時間を要し、舞う神官も8名程度である。磐戸神楽は特殊の神事に行うもので最も厳粛且鄭重なもので曲目も37番あり、7時間から8時間を要し神官も最低12名である。これらの神楽は申すまでもなく、神慮をお慰めするものであり、又魔を祓い除けると言うことで尚平和を固める舞であると解される。又祭儀を荘厳盛大にするものである。神社の例祭日又神迎祭、神幸祭等の祭典には必ず奉納され、尚私祭の霊祭にも行われている。そしてこの神楽に奉仕するものは神官に限って参加するところに、平戸神楽と同様に特異性をもっていると言えよう。 祭りと言えば神楽、神楽と言えば祭りと思う程生活に溶け込んでいる神聖なる神人一体の境地に入る信仰的な祭典行事で、それは又すばらしい民族的文化伝承遺産である。思えば、私がまだ子供の頃は鎮守の氏神祭のお祭りはほんとうに盛んで楽しい行事であった。神社の境内は人の波と言ってよい程大勢の参拝者で賑やかなものであった。船ぐろ、馬かけ、やぶさめ、相撲等勇ましい行事が展開され、皆々われを忘れて祭りに参加したものである。家庭に於ては家毎に親戚の人達が集まって甘酒を飲みながら祭りを楽しみ祝ったものである。それは尊い家庭の祭祀であった。今や時代が変わるにつれ、都会にくらべて田舎のお祭りも寂しい状況で神楽の見物をする人もだんだん減少しているようである。 昭和62年の1月8日、壱岐神楽は平戸神楽とともに国の重要無形民俗文化財に指定されたとして東京文化庁に行き、文化庁長官より直接証書を拝受するの光栄に浴した。その証書はコピーして現在郡内旧村社以上の神社に掲げて文化遺産としていつまでも永くこの誉を称えるようにしている。又現在島内の神職殊に若手の神職等は先輩神主等に習い、神楽の研究に熱心で壱岐神楽の後継者として怠らず努力していることは誠に喜ばしい限りであり、昨年は韓国まで乞われて壱岐神楽を披露する等、まことに感謝に堪えない次第で今後益々発展することを願うものである。 熊野神社 宮司 吉野六男 |
村社熊野神社〔旧称熊野大権現) 鎭座地 鯨伏村大字立石南触 祭神 伊弉冊尊、素盞鳴尊、事解男命、速玉男命、天照大神、國常立尊、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、天津彦々火瓊々杵尊、彦火々出見尊、軻遇突智命、埴山姫命、罔象女命、稚産霊命、大山砥命 例祭日 10月29日 神幸式、大神樂奉奏、濱殿ニ於テ餅撒ヲ行フ。 境内地 1596坪 〔由緒沿革〕 一、壱破國続風土記ニ云、往昔本宮和泉守橘貞兼依誓願自紀州熊野迎來勧請此所自余以降奉齋当村爲産土神。 一、又云、建立年暦不詳、当社者紀州熊野大神宮同躰分神也、往昔本宮和泉守橘貞兼依誓願自熊野迎來勧請此所自余以降奉齋常所鎮護宗社々云。 一、又云、熊野大権現、所祭伊弊冊尊、事解男命、速玉男命也。 当社ハ紀州熊野大神御同躰、古老云、昔熊野大神足海御着船ノ時浜石ニ御腰ヲ掛ケ給ヒ其レヨリ今ノ社地ニ至リ給ヒテ瑞御舎太敷立鎭マリ座シマス、刈田度新田ノ封彊ヨリ東ニ石アリ俗ニ呼ンデ権現石ト云フ。 一、又云、熊野権現ハ紀伊國熊野山ヨリ当國鯨伏郷足海ニ着キ給ヒシ時本宮和泉守橘貞兼奉斎。 一、後光明天皇正保4年丁亥8月御殿造営アリ其上棟ノ文云、奉再建一岐郡熊野十二所権現宮御寳殿一字之事、伏願者專祈大旦那松浦肥前守源朝臣鎭信押字 一、又寛文2年ノ棟札ニ曰、奉再建立熊野大権現御寳殿一字、大檀那松浦肥前守源朝臣鎮信花押 一、当社宝物ニ霊劔一口アリ、劔身二尺五寸幅二寸二分、外函ノ銘ニ曰「壱岐國壱岐郡立石村熊野神社霊劔者依爲上古伝来之宝物修覈之畢、神官等慎而勿怠矣、寛文11年11月15日、從五位下松浦肥前守源鎮信」 又其内箱ノ蓋ノ裏ニ金泥ノ文字アリ 一、社領ノ事、松浦肥前守源任押花一通。 一、松浦肥前守源任花押一通。 一、当社ハ藩主ノ崇敬社ニシテ祭日ニハ代参馬廻衆参向アリ又新御造営ノ節ハ白銀五枚ヲ献ゼラル。 一、明治9年村社ニ列セラル。 一、明治40年7月神饌幣帛吊料供進神社ニ指定セラル。 備考、無格社大山祇神社及同今官神社ハ大正5年5月1日附願済ノ上当熊野神社ニ合祀サル。 壹岐國神社誌 |