比自岐神社
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   【延喜式神名帳】比自岐神社 伊賀国 伊賀郡鎮座

   【現社名】比自岐神社
   【住所】三重県伊賀市比自岐 683
       34度42分21秒,東経136度11分18秒
   【祭神】比自岐神 (配祀)天児屋根命 天照大神
       (合祀)剣根命 応神天皇 建速須佐之男命 火産靈神 大物主神 宇迦之御魂命
       木花佐久夜比売命 大山祇神 伊邪那岐命 大綿津見神 菅原道真
       『伊水温故』『延長風土記』『神社覈録』三保津姫
       『総国風土記』事代主命
       延経『神名帳考証』道敷神
       『大日本史』神祇志『神祇志料』伊賀比自支和気の祖神

   【例祭】11月11日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】天正9年(1581)伊賀の乱で社殿焼失
       慶長9年(1604)9月27日再建
       明治4年7月村社
       同39年12月25日神饌幣帛料供進指定社
       明治41年に多くの社を合祀
       大正13年県社

   【関係氏族】伊賀比自支和気氏
   【鎮座地】古来よりこの地に鎮座し異論はない。

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「天王宮・大森大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造桧皮葺
       拝殿・祝詞舎・社務所・手水舎・神庫・雑具舎・鐘

   【境内社】護国社

川の合流地点の近く平地。集落内に鎮座する。
古来よりこの地に鎮座し異論はない。
この地は伊賀比自支和気氏の本貫する地域であつた。
天皇崩御の残所に伊賀比自支和気氏の子孫が、刀を負ひ戈を持つネギと酒食を持ち刀を負うヨヒとして、代々奉仕してきた。
ネギ等は殯宮内に入つて呪言を唱えるが、その内容はたやすく人に知らしめない秘事であつたという。
延喜以降中世末に至るまでの当社と当社に関係する史料は、全く失われて不明である。


由緒

上野市比自岐683番地
創立年代不詳 延喜式内社である。明治41年一村一社の合祀令により旧比自岐村内に鎮座の33社を当神社に合祀大正13年旧社格県社に昇格する。
主神の比自岐神については当時の豪族比自岐和気の祖神であり比自岐和気は第12代垂仁天皇の皇子圓日王に彼の息女を嫁がせた事からも如何に朝廷と関係が深かったかが伺える。
一、祭神 比自岐神、天児屋根命、天照大神、剣根命、応神天皇、建速須佐之男命、火産霊神、大物主神、宇迦之御魂命、木花佐久夜比売命、大山祇神、伊邪那岐命、大綿津見神、菅原道真
一、主な祭典 例祭  11月12日 祇園祭  7月第4日曜日

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



比自岐神社

災害復興事業の記録
平成10年9月22日午後
当地を襲った台風7号は、
希に見る風速猛威をふるい、境内に残る樹齢四百年を越える大木をなぎ倒し、千古を袴る欝蒼とした杜の形態は一瞬に壊滅した。
更には、本殿以下、諸殿舎にも甚大な被害をもたらし、ここに、氏子等協議を重ねるうちに、当神社災書復興事業委員会を設立し事に当たり、本殿の修複工事をはじめ、塀・玉垣の建て替え、手水舎の修復、神楽殿の新築工事を計画し、氏子・外氏子等の御浄財を仰き、約五千万円の経費をもって、平成13年3月10日竣工するに至った。
比自岐神社宮司 
浦田正克

社頭掲示板



比自岐神社

市指定無形民俗文化財
比自岐神社祇園祭
指定 平成4年5月27日
比自岐神社では、かつては旧暦6月14日、現在は7月の第四日曜日に祇園祭が行われます。
華やかな祭り衣装の子どもたちが太鼓を打ちながら「祇園踊り」を踊ります。かつては雨乞いのための「かんこ踊り」でしたが、現在は「祇園踊り」として継承されています。
祭り終了間際に、伊賀地方一帯に広まる夏の疫神払いのハナトリが行われ、奉納されたナや団扇を氏子たちが奪い合います。祭が終わるとそれを持ち帰り、今年一年の厄除けとします。
皆岐神社祇園祭は祇園信仰にかかわる「ハナトリ」と「かんこ踊り」の一部がひとつになった特色ある民俗文化財です。
伊賀市教育委員会

社頭掲示板



よみがえりつつある比自岐の杜

比自岐神社(宮司浦田正克)は伊賀市比自岐に鎮座し、『延喜式神名帳』記載の神社で古くは正一位大森大明神と呼ばれた古社である。その名の示すとおり、森とは深い関係があり、集落の中央部にこんもりとした1ha余りの杜を有し、年中、野鳥のさえずりが絶えることなく、夏には子供たちが昆虫採集に訪れた。まさに氏子たちの心の安らぎの場であった。
その杜を恐ろしい台風が襲った。平成10年9月、室生寺の五重塔を破壊した台風7号が伊賀地方を直撃したのである。上野測候所の観測では瞬間最大風速57mを記録し、竜巻現象も発生した。7号は伊賀地方の多くの神社に大きな被害を与えた。比自岐神社は回りに遮るものがなかったため、樹齢数百年の大木が根こそぎ倒され、多くの木々の枝や幹はへし折られた。自慢であった千古の杜が瞬時に壊滅したのである。本殿以下の建物も木々の下敷きとなり、相当の被害をこうむった。当時を浦田宮司は「いくら自然のいたずらとはいえ、しばらくは、余りの無残さにただただ呆然として手がつけようがなかった」と振り返る。
その後、災害復興委員会を設立し、杜の復興への取り組みが始まった。まずは風倒木の搬出作業が行なわれ、多額の費用を要した。次に神宮司庁営林部より、当時の被害状況を鑑みて、特別のご配慮を頂き約600本の苗木を譲り受けた。当時の営林部長より「風に強い森を作るためには杉・檜ばかりでは駄目で雑木を混植するほうがいい」という助言をいただき、榊・樫・杉・くろがねもちなどの木々を本殿周辺の50aに植樹を行なった。残りの50aは現代風にアレンジして小潅木を植え、遊歩道をつけ、公園風に模様替えした。
浦田宮司は今の杜の様子を見て、「あれから8年目、最近ではウォーキング仲間や、子供連れのお母さん方の憩いの場となり、今までになかった賑わいを見せている。本殿周辺の木々も繁茂し始め、杜の形態がやっとの思いで取りもどしつつあるのが嬉しい。私の代で失ってしまった森の宝物、返す返すも残念であるが、今は唯、我が子のように木を想い、数十年、数百年先の杜の姿を夢見ている。」と語られた。

三重県神社庁「みあかり」14号



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