木津川の南岸に鎮座している。 往古より現在地に鎮座していたと考えられ、参道入口から社殿周辺にかけては、円墳数基を含む宮山古墳群がある。 本来の祭神は鎮座地である阿保村を本貫とした阿保朝臣氏族の始祖息速別命ではないかと考証せられる。 配祀する武甕槌神たち春日三神は、神護景雲元年常陸国から三笠山遷幸の際に勧請されたものと伝えられている。 旧本殿は宝殿と称され国の重要文化財に指定されている。 境内に「要石(かなめいし)」と称する石があるが、これは武甕槌神.経津主神二神の地震守護の神威の象徴として、遠近の崇敬をうけている。当社の鎮座地が地中深く堅い岩盤によつておおわれているとされている。 また別当寺であつた禅定寺の梵鐘「虫喰鐘」は日本三大奇鐘のひとつといわれ、用材の化学変化で鐘面の瘤が剥落した奇鐘として聞えている。 |
大村神社参拝のしおり 当社は延喜式神明帳所載の古社で祭神は大村の神。古来の本祀は伊賀国阿保村を本貫とした阿保朝臣の氏族がその始祖におわします。お鎮まりになる阿保村は伊賀国東南部の西は名張川に及ぶ、上津、中津、下津、阿保村が占める大村で第十一代垂仁天皇の皇子息速別命(いこはやわけのみこと)の為に宮室を此の地に築かれ、命及び御子孫が代々居住し、文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ地名に因って阿保朝臣の姓氏を賜った。阿保氏族は始祖息速別命を氏神として大村神社を創祀し地域の諸部族、遠近の庶民が亦開発開運の神として厚く崇敬をあつめた。 武甕槌命、経津主命は鹿嶋・香取から神護景雲元年奈良三笠山御遷幸の途次、御休息の際奉斎した要石は地震斎護の信仰あつく又大山祗神は岡田の山の神は岡田の山神で安産授乳を祈る賽者があとを絶たない。 社頭掲示板 当社は延喜式神名帳所載国史現在の古社。祭神大村の神は、阿保村の神の転約なるにより、古来の本祀は、伊賀国阿保村を本貫とした阿保朝臣の氏族が、その始祖に在す垂仁天皇の皇子息速別の命(いこはやわけのみこと)を奉祀した氏社で、社域は、父帝が皇子の為に築かれた宮室跡であろう。命及びその御子孫代々この宮室に住まわれ大和文化の移入と土地開発尽くされ、上津中津、下津、阿保の部族の崇敬する総社として社領二百五十石を領した。 相殿奉祀の武甕槌の神、経津主の神は、神護景雲元年常総から御迂御鎮斎、地震除災の御霊験あらたかで要石を神石と崇める。又、岡田山の神(大山祗命)は安産授乳の守護神。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大村神社 大村神社は延喜式神名帳に載っている古社で、主神の大村の神は、阿保氏族の始祖、息速別命と申し、今からおよそ二千年程前の神様で、第11代垂仁天皇の皇子、伊勢の神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたられます。 当社の鎮座する阿保村は伊賀東南部に位置し、古くは奈良・京都から青山峠を越えて伊勢・東国に抜ける街道の要所で阿保頓宮も置かれていまhした。 又、当社の鎮座する地は、息速別命の宮室が築かれていたと伝えられています。 大神様はこの地域一帯の開発・開拓された土地の守り神として、また自信除災の大神様として古今御神威を発揮され、多くの人々の信仰をあつめています。 御祭礼 数多い御祭礼の中でも秋の例大祭が最も盛大であります。11月2日の宵宮は、古式に習い祭講の参拝があり、又、境内では獅子神楽が奉納され、参詣者で賑わいます。地震除災祈願祭は9月1日に執り行われています。 境内 自身守護『要石』 境内に『要石』が奉斎されております。創祀は、神護景雲元年(767年)、相殿奉祀の武甕槌命・経津主命は、常陸下総から三笠山遷幸の途次、当社に御休泊、『要石』を奉鎮せられました。 この神石は大地をしっかり護って下さる有難い霊石です。 ゆるぐともよもやぬけまじ要石 大村神のあらんかぎりは この呪文は古くから伝えられ、自信守護を願う人々のあいだで唱えられて参りました。御霊験は著しく、ことに安政元年伊賀上野大地震には不思議とこの地方は難にまぬがれたと伝えられています。 虫喰鐘 日本三代奇鐘のひとつといわれる虫喰鐘は当社境内の鐘楼にあります。鐘乳はぼろぼろと虫が喰ったように全て朽ち落ち、様々な伝説が伝わっています。現在は除夜の鐘・請願成就の鐘として広く信仰をあつめています。 由緒書 |
大村神社 当社は延喜式神名帳所載の古社で御祭神大村の神は第11代垂仁天皇の皇子(息速別名)で伊勢神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟宮に当たる。社域は宮室の築かれた所で、命及び御子孫が代々居住し、大和文化の移入、土地・産業の開発に尽くされ伊勢南部一帯の総社として広く崇敬を集めている。相殿奉祀の武甕槌神・経津主神は神護景雲元年に常陸下総国より三笠山御遷幸の途次に奉祭、共に奉祭された要石は土地の鎮め、地震除災の信仰を集めている。 社頭掲示板 |
要石 1.創祀 神護景雲元年 武甕槌命経津主命は常総から御宇の際御鎮祭申し上げ地震除災の御霊験あらたかで要石を神石と崇められた。 当時の呪文 ゆるぐとも よしやぬけまじ要石 大村神のあらんかぎりは と唱え多くの信仰をあつめた 社頭掲示板 |
大村神社宝殿 (国指定)重要文化財 大村神社宝殿 天正15年(1587)再建の元本殿である。 一間社入母屋造、妻入、檜皮葺、向拝一間の社殿で春日造に近い。 本組みは簡素ながら形状がよく整い、彫刻は桃山時代の建築備の特徴を良く現し、彩色は江戸時代初期のものである。 昭和30年(解体修理)と平成8年(彩色復元)に大修理を行った。 指定 (特別保護建造物)大正9年4月15日 (国宝)昭和4年7月1日 (重要文化財)昭和25年8月29日 伊賀市教育委員会 社頭掲示板 |
大村神社 神社ご由緒 大村神社は「延喜式」(927年)の神名帳に社名が記載されています。神名帳には、当時全国に無数にある神社の中から御由緒が正しく、かつ朝廷の崇敬の厚い神社が選ばれています。又、それ以前の「三代実録」(901年)に、863年に神位が正六位上から一階級昇進し従五位下に叙せられたことの記載があり、当時からこの地方きっての古社であることがうかがえます。当社の主神、大村の神の御名は、現存する日本最古の書物「古事記」(712年)や 「日本書紀」(720年)に「伊許婆夜和気命」「池速別命」とそれぞれ記されています。 大村の神 大村の神は、第11代垂仁天皇の皇子で、今から凡そ2000年程前にこの阿保の里にみえられました。伊勢の神宮を奉鎮せられた倭姫命の弟君にあたられ、日本武尊の叔父君にあたられます。県下には倭姫命・日本武尊のゆかりの地や伝承が多く残っています。町内には、大村の神(息速別命)いこはやわけのみことの陵墓が阿保の西方にありヽ 俗に「親王さん」と呼ばれています。羽根には倭姫命の巡行の伝承があります。 又、当社の鎮座する地は、大村の神(息速別命)の宮室が築かれていたと言われています。 大村の神は、この地域一帯を開発・開拓された土地り守り神様として、また土地の鎮め・地震除災の守り神様として、古今御神威を発揮され、遠き近きから多くの信仰を集めてきました。 社名 社名は、「延喜式」(927年)の神名帳に「大村神社」と記されています。俗に「大森ノ社」と称されたことが「三國地志」などに見えます。本居宣長の「菅笠日記」に、「岡田 別府などいふ里を過て、左にちかく、阿保の大森明神と中ス神おはしますは、大村神社などをあやまりて、かくまうすにはあらじや」と記されています。神社境内が、大きな木々に覆われているために、「大森」といふ俗称で称されたのではないかと思われます。又現存の棟札には「鹿嶋大明神」(大正15年)、「鹿嶋宮」(元和7年、安永8年)などと記されています。当時、大村の神と共にお祀りしている鹿嶋神に対する崇敬か厚かったため、この様に称されたものと思われます。 土地の鎮めの「要石」 拝殿の西に「要石」が奉斎されています。創始は、神護景雲元年(767年)、御本殿相殿祭祀の武甕槌命・経津主命は、常陸・下総の国より奈良の 三笠山遷幸の途次、大村神社に御休息、「要石」を奉鎮せられました。この霊石は、地下深く広がり、大地を揺るがす大なまずをしっかりと押さえていると伝えられています。又大村の森全体が大きな岩盤におおわれ、この地域をしっかりと護っていると伝えられています。毎年、9月1日の防災の日に地震除災祈願大祭が斎行され、又秋祭り には大なまずが街中に引き出されます。 公式HP |
大村神社 大村は於保牟良と訓べし〇祭神武甕槌命、経津主命、天児屋根命、(伊水温故)○阿保郷阿保町東岡に在す、今大森社と称す、(同上)例祭(欠く)○姓氏録(知泉国神別)大村直、紀直同祖、大名草彦命、男枳彌都彌命之後也、○残編風土記云、大村里、有神号大村明神、國造山氣忌寸所祭也、 伊水温故云、武雷命、神護景雲元年6月21日、常陸國鹿島を出給うて爰に來現す、同2年鎮坐以後香取神を加ふ 神位 三代実録、貞観5年3月16日戊寅、伊賀國正六位上大村神授從五位下、 神社覈録 |
郷社 大村神社 祭神 大村神 武甕槌神 経津主神 天児屋根命 合殿 宇迦能御魂神 応神天皇 月夜見命 須佐之男命 大日霊命 天押雲命 創建年代詳ならす、神名帳考証に、「大村神社、今云、天森社、在阿保町東岡、大名草彦命、姓氏録云、大村直、紀直同祖、大名草彦命男枳彌都珍命之後也」と云ひ、神社覈録に云く、「大村は於保牟良と訓べし、祭神武甕槌命、経津主命、天児屋根命、阿保郷阿保町東岡に在す、今大森社と称す、姓氏録(前文同断)、残編風土記云、大村里有神號大村明神、國造由氣忌寸所祭也、伊水温故云、武雷命、神護景雲元年6月21日、常陸國鹿島を出給うて爰に来現す、同2年鎮座以後香取神を加ふ」と見え、神祇志料に、「大村神社、今阿保駅東にあり、大森社と云ふ、清和天皇貞観5年12月戊寅、正六位上大村神に從五位下を授く、凡11月祭を行ふ」と云ひ、共に伊賀郡(明治29年伊賀名張二郡を合ぜ名賀とす)十一座の中に数へ式内小社とず、又三國地誌には「廷喜弐、伊賀郡大村神社は何保村の訛なり、今阿保村に在り、大森明神と曰ふ、三代実録、貞観5年授位」とあり、然るに大日本地名辞書に云く、「土俗阿保を呼びて阿於と為す、延喜式に早く於保と訛れり」と云へり、而して大森明神又は大森社と称するは果しで何に基くや、或は犬村の転訛せしものにや、記して後考を竣っ、明治17年郷社に列せられ、同22年境内社八幡社を合祀し、同40年村社十七明神社、同由神社、同かしま神社、無格社及境内社七十社を合祀す。 社殿は本殿、拝殿、参籠舎等を具備し、境内坪数1903坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |