田守神社
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   【延喜式神名帳】田守神社 伊賀国 伊賀郡鎮座

   【現社名】田守神社
   【住所】三重県伊賀市蔵縄手353
       北緯34度41分37秒,東経136度7分6秒
   【祭神】彦屋主田心命 別雷神 木花咲耶媛命 表筒男命 中筒男命
       『神名帳考証』『伊賀国誌草稿』彦屋主田心命
       『延長風土記』『神社覈録』別雷神
       『惣国風土記』木花咲耶比
       『大日本史』神祇志『神祇志料』『特選神名牒』祭神不詳

       古代に当地を支配した伊賀臣関係氏族がその祖神を祀つたものか。
       当地の産土神ないし農業神(田守という社名より)を奉祀したものではないかという想像は可能であろう。
       ただ近世初頭には別雷神を祀ると信じられていた。

   【例祭】10月28日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       長元年中(1028−36)に現在地に吉田神社の境内社として遷座

   【関係氏族】伊賀臣関係氏族
   【鎮座地】もと大字鍛治屋字吉田井上とにあった
        長元年中に現在地に吉田神社の境内社として遷座
        明治41年3月吉田神社以下を当社に合祀

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「雷ノ社」と称していた
   【社殿】本殿流造桧皮葺
       拝殿・神饌所・手水舎・社務所

   【境内社】

古山小学校の北東山裾に鎮座する。
古代に当地を支配した伊賀臣関係氏族がその祖神を祀つたものか、当地の産土神ないし農業神(田守という社名より)を奉祀したものではないか。
延喜式内小社に列せられた以外、田守神社の名が史料に登場することはない。
戦国時代末期から近世を通じて別雷神を奉齋していた。
もと大字鍛治屋字吉田井上にあった。
社伝によれば長和3年に下郡の猪田神社より諏訪住吉神を勧請して鍛治屋吉田井上に奉祀し、吉田社と称した。その後長元年中に社殿を藏縄手奥屋敷(長平寺裏山)に造営し、吉田社及び雷大明神(=田守神社)を遷祀した。
明治に至り、現在地に村社吉田神社、同境内社田守神社他が鎮座していたが、明治41年3月に村内58社と共に、境内社田守神社ヘ合祀の上、村社田守神社と単称する許可を得て、同年4月に合祀した。社殿等の建物は吉田神社のものが充用せられた。
宮坊は梅母山吉田寺であった。なおかつて社領180石であつたという。


【鎮座地】

『上野市遺跡地図』に「雷神社跡」というのが載っており、住所は「鍛冶屋字奥吉田」となっている。
田守神社の裏手に当たり、現在は墓地として利用されている。
この地が田守神社の旧跡とする説もある。
また、三重県伊賀市鍛冶屋【北緯34度42分9秒 東経136度7分12秒】の標高223.9mの三角点がある所に磐座と思われる巨石群があり、この磐座は田守神社と関係するとする説もある。


田守神社秋祭

市指定無形民俗文化財
田守神社秋祭
 指定 平成4年5月27日
田守神社たもりじんじゃでは、10月29日に秋祭りが行われます。
神社での神事の後、鬼・旗幟・金幣・金鉾・合祀祈念大幣・太鼓台・獅子・花笠・神輿等の行列が神社から西の御旅所へ巡幸し神社へ帰ってきます。
祭りの当屋は、その証として右側の耳に割り箸を一本掛けています。
途中にある住吉橋では神輿を置き、七度半の使いの儀式が執り行われます。
これはかつて菖蒲池の鎮守であり、現在田守神社たもりじんじゃに合祀されている住吉社すみよししゃの神を迎えにいくためのものです。
行列が神社へ帰参すると境内で貴箸神事たかはししんじが執り行われ、獅子神楽が奉納されます。
貴箸神事(たかはししんじ)では、田楽講の者一人が薦の上に立ち、手前に日の丸の扇を開けて置き、右手に扇を、左手に幣のついた竹杖を持って臨みます。
祝詞に節を付けて高唱したのち、扇を背後の鳥居めがけて背面のまま高々と投げ上げて終了します。
これらの行事は、田楽講、馬苦労講、慶成講、羯鼓講、優久里講の五つの講が行ってきた渡御行列と貴箸神事について、七つの集落がその役割を補い、現在の形態となったものです。
江戸時代からの祭礼の形態が残る貴重な行事です。
伊賀市教育委員会

社頭掲示板



田守神社

田守は、太毛里と訓べし〇祭神別雷神〇上神戸の辺に在す、詳ならず、(伊賀考)○残編風土記云、田守山、有神號田守明神、所祭別雷神也、

神社覈録



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