春日神社
かすがじんじゃ
葦神社 を合祀
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   【延喜式神名帳】葦神社 伊賀国 山田郡鎮座

   【現社名】春日神社
   【住所】三重県伊賀市西山2265
       北緯34度47分41秒,東経136度4分34秒
   【祭神】天児屋根命
       (合祀)応神天皇 木之久久能智神 名山主真剣荒魂 息長足姫命 少毘古那命
       倉稻魂命 建速須佐之男命 木花咲夜比女命 速玉之男命 大山祇命

   【例祭】 4月5日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】久安5年(1149)春日大社第三殿の御祭神、天児屋根尊を奉遷
       弘治三年(1557)木生山麓に遷座
       明治になり、式内葦神社といわれる木生神社等を合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】葦神社の旧地不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿

   【境内社】

道路に南面した参道入口があり、階段の上に鳥居。境内に入り階段をのぼると、正面に社殿がある。
社殿の後方に、少し離れて一段高く拝殿。拝殿の後方に、垣に囲まれて春日造の本殿がある。
久安五年(1149)、春日大社第三殿の御祭神、天児屋根尊をこの西山の里に奉遷したのが創祀。
明治になり、式内葦神社といわれる木生神社等を合祀。木生神社は、宣化天皇の御代の創建という。


由緒

西山春日神社(かすがじんじゃ)
鎮座地 〒518 上野市西山2265番地
電話  0595−23−4364
交通  近鉄上野市駅から西山行バス西山下車
【御祭神】 天児屋根命、応神天皇、木之久々能智神、名山主真剣荒魂、息長足姫命、少毘古那命、倉稲魂命、熊野八荘司之後裔村長佐三左衛門、建速須佐之男命、木花咲夜比女命、速玉之男命、撞木賢木厳之霊、天疎向津姫命、大山祇命
【旧社格】 村社            
【社殿】 本殿 春日造、銅板葺、向拝付
【由緒】 伊賀国阿山郡西山庄(現上野市西山)は平安末期以来、南都春日社の節供料所であった。藤原守衛書記する天和3年(1683)の「春日大明神縁起」(『神道大系』伊賀国所収)によると、その前半、春日四所大神の御笠山御鎮座の次第に続いて平安末期の久安3年(1147)正月7日、当西山庄より南都春日社の節供祭に御神供を備進、以来永くそれは明治維新まで続けられた。その故実にもとづき大正12年、当社から奈良の春日神社に玄米一俵を奉納している。
このような史実の故をもって、早く久安5年(1149)、春日社第三殿の御祭神、天児屋根尊をこの西山の里に奉遷したのが当社の起りである。その後、鎌倉初期の文暦元年(1234)社殿焼失、文和二年(1353)再興されたが、室町時代の弘治3年(1557)に木生山麓に移転鎮座された。今の本殿は江戸中期、延享2年(1745)の造営にかかるものである。
明治4年、村社に列せられ、同40年には境内社八幡神社並びに木生神社以下十五社を合祀して境内地が整備された。大正3年、神饌幣帛料供進社に指定、今日に至る。
【例祭日】 四月五日
【祭祀】 春 祭 3月13日
     木生祭 10月14日
【境内】 九〇六坪
     神体山 木生山 

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




西山春日神社由緒

一、主祭神 天児屋根命
一、例祭  4月5日
春日大明神縁起〔奈良春日大社社誌〕によれば、三笠山に御鎮座の春日四所大神に平安末期の久安3年(1147)正月7日西山庄より南都春日社の節供祭に御神供を備進、久安5年(1149)2月甲日西山郷字赤衛谷を宮処と定め春日第三殿の天児屋根命を勧請とある。
鎌倉初期の文暦元年(1234)社殿焼失文和2年(1353)4月社殿再興、室町時代の弘沿3年(1557)赤衛谷より現在地に移転鎮座される。
現在の本殿は江戸中期の延享2年(1754)造営にかかわるものである。
当社は古く平安朝時代から春日大社の四節供祭の御神供料所であったので以来長く明治維新まで続けられた、大正12年神供料復興の意味で太平洋戦争まで玄米一俵を奉納して来ましたが、戦後中断平成四年に復活して現在に至っています。
明治40年10月
木生神社[木之久々能智神・名山主真剣荒魂〕
八幡神社[応神天皇〕 石神社〔息長足姫命〕
栗島挿社〔少毘古那命・倉稲魂命〕
佐三神社〔熊野八荘司之後裔本村長佐三衛門〕
津島神社〔建速須佐之男命〕 浅間神社(木花咲夜毘売命〕命
神明社〔憧木賢木厳之御霊・天疎向津姫命〕山神社〔大山祇命〕熊野神社〔速玉之男命〕は春日神社に合祀される。
明治四年村社に制定され大正三年神饌粥尾科併鮭社に選定され今日に至る。
木生神社〔木尾権現〕
宣化天皇の御代(535〜539)に大山の頂を宮処と定め木之久々能智命・名山主真剣荒魂の二柱を祭神とし又神の使は狼であると云うも由緒不詳なり。
〔三国地話西山考証〕
西山村字魔館谷は真剣の頭を堕した処(首堕瀧)て、その多くの神霊は魔となって人々を悩ましたるに、その地を魔谷と云う、
その魍魎は多くの村民を煩わしたので山岳の頂に真剣の霊を祭り神木を盗んだ悪心を悔い善に帰りたいと願う荒魂と共に木の神をまつり社の弥号を木生と号した。
社を斎したが祭礼が行なわれなかつたので村民が多く煩った。
これが神の祟りと又社の東北阪を通る馬も多く項うをもって東向なる祠を南に同けて弘治2年(1556)より始めし祭り(ナスビ祭)を今尚執り続けている。

社頭掲示板



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