服部川に、南から注ぎ込む宮川の西岸の山腹にある。 この地は伊賀の阿波君の本貫地で、阿波君の氏人が祖息長田別命を奉祀したものであろう。 中世に郷士阿波越後が阿波国から杉尾白鬚神を遷迎合祀した。 |
阿波神社 阿波は假字也○祭神神功皇后○下阿波村に在す、(伊賀考)例祭(欠く)○残編風土記云、阿拝郡阿波山、有神號阿波大明神、所祭神功皇后也、 伊水温故云、下阿波村椙生社は、村の惚社猿国彦也、外に天神社あり、式阿波神社は神功皇后を祭る、此社不見、天神と誤るなるべし、 類社 大和国添上郡率川阿波神社の條見合すべし 神位 三代実録、貞観3年4月10日甲寅、授伊賀國正六位上阿波神從五位下、同15年9月27日己丑、授伊賀国從五位下阿波神從五位上、 神社覈録 |
郷社 阿波神社 祭神 稚日女神 猿田毘古神 合殿 菅原道真 健速須佐之男神 天忍穂耳命 天之穂日命 天津日子根命 火之加具土神 活津日子根命 熊野久須比命 多紀理比売命 狭依比売神 多紀津比売命 大物主命 少比古名命 速玉之男神 大山祇命 山王 創建年代詳ならす、神社覈録に云く、「阿波は假字也、祭神神功皇后、下阿波村に在す、」残編風土記に云く、「阿拝郡(明治29年阿拝山田二郡を合せ阿山郡と改む)阿波山に神あり、阿波大明神と號す、祭る所神功皇后なり、」伊水温故に云く、「下阿波村椙生社は村の総社猿田彦也、外に天神社あり、式阿波神社は神功皇后を祭る、此社見えず、天神と誤るなるべし」 と、又、神名帳考証に、「阿波神社、在阿波村、天日方奇日方命、」神祇志料に、「阿波神社、昔粟郷河南里に在りしを、今下阿波村に移祭る、凡9月9日祭を行ふ、」なと見え、伊賀風土記に、阿波荘は往昔伊勢國に属して、千早振神世の昔、天照大神の天より天阿波玉を降し給うて五穀長蔓する故に此所をほめて阿波と云ふ、」とあり、尚神功紀に、「更に齋宮を小山田邑に造り、壬申朔皇后吉日を選みて齋宮に入り、親ら神主と為り、則ち武内宿禰に命じて琴を撫せしめ、中臣鳥賊津主を喚して審神と爲して神意を窺ふ、時に神答へて曰く、幡萩穂に出でし吾や尾田吾田節の淡の郡に居る神なりと、依りて皇后使を遣し分霊を奉じて筑紫小山田邑に移し地名を以て社号とす云々、」三代実録に、貞観3年4月10日、伊賀國正六位上阿波神に從五位下を授け、同15年9月己丑、從五位上に進め給ふ」と見ゆ、社伝によれば、中世当村の郷士阿波越後なる者阿波國より杉尾白髭神を遷祭す、爾来阿波神社又は杉尾白髭明神等と称するに至ると、三國地誌に、本社鰐口銘に云く、阿波谷杉尾大明神、文緑5年丙申5月日とあり、又狛狗橡あり頗古雅なり、土俗杉尾白髭明神と称し、猿田彦を祀ると爲す、按するに是れは、日本書紀神功皇后筑紫に於て請教したまへる、淡郡神なるべし」とあり、以て其梗築を知るに足らん、明治15年5月12日郷社に列せらる、同40年7月境内社秋葉神社及び無格社十一社を合祀す。 社殿は本殿、拝殿、神輿殿、参籠殿、社務所等具備し、境内坪数482坪(官有地第一種)を有するの外、50坪〔民有地第一種)を明治25年12月境内編入許可せらる、 明治神社誌料 |