植木神社
うえきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】鳥坂神社 伊賀国 山田郡鎮座
   【延喜式神名帳】葦神社 伊賀国 山田郡鎮座

   【現社名】植木神社
   【住所】三重県伊賀市平田699
       北緯34度45分52秒,東経136度13分4秒
   【祭神】健速須佐之男命 櫛名田毘賣命
       (配祀)鳥鳴海神 事代主神 火之迦具土神 品陀和氣尊 菅原道眞
       大山祇命 猿田毘古神 彌都波能賣神 健速須佐之男命 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
       天之穗日命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理毘賣命 多岐津毘賣命
       武甕槌命 市杵嶋姫命 少彦名命 宇迦之御魂命 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命
       大日ルメ貴命 鹿嶋御子三十八神 大物主命 香香脊男命 五十猛神 大稻輿命 大友皇子
       志那都毘古命 志那都毘賣命 安閑天皇 山田惟之 大己貴命

   【例祭】5月8日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】寛弘元年(1004)播磨国広峰山から牛頭天王を勧請
       文永2年(1265)洪水のため当地へ遷座し植木牛頭天王と称した
       明治7年5月郷社
       明治40年平田神社など30社を合祀

   【関係氏族】
   【鎮座地】文永2年(1265)洪水のため当地へ遷座し植木牛頭天王と称した

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

式内社・葦神社の論社。
また、式内社鳥坂神社を合祀とある。
明治になって多くの神社が合祀され、その中に鳥坂神社が2社あり、いずれも式内社鳥坂神社の論社である。
1社は阿山郡大山田村大字平田にあって、明治40年7月に他の神社に合祀され、翌年、さらに合祀されて山田神社と称せられ、大山田村大字平田の植木神社の合殿となつた。
1社は阿山郡大山田付大宇出後にあって、明治7年に、教部省が、この社を式内社鳥坂神社と決した。
明治41年3月、合祀されて山田神社となり、植木神社の合殿となつた。


植木神社祇園祭

三重県無形民俗文化財 昭和54年3月23日指定
文永年間この地に宮柱太敷建て奉斎し、植木牛頭天王と称した。四季の祭礼は盛大に執り行われ、中でも祇園会は、6月7日から14日まで真泥の差出の宮を二の宮と定め、大竹に白幣を神璽 として渡御し、猿楽、田楽等終日歌舞を相勤め、14日午刻還御し本祭を執行した。
慶長2年に一棟三扉の本殿を新築し、平田郷十ケ村の惣社として崇敬され、祇園会例祭には、二柄の御輿に平田町の山車三台、中島の献花や花太鼓等が供奉し八王子宮へ渡御される。
現在は7月の最終土曜日を宵宮、翌日曜日を本祭と定め、祇園囃子も賑やかに絢爛豪華に執り行われている。
明治2年布告に依り植木神社と改称。 明治7年5月郷社に列せられた。
大山田村教育委員会
植木神社祇園祭保存会

社頭石碑



植木神社祇園祭

祇園祭 三重県 大山田村
毎年7月末の土曜日(宵宮)、日曜日(本宮)に行われる植木神社の祇園祭は三百年の伝統があり、三重県無形民俗文化財に指定されていて、本村の代表的な祭りである。
本宮の午後3時、竹幣・祇園花(花傘十本)・花太鼓・神輿(二基)・神職(昔は乗馬)・興太鼓・神宝・献花(大字の花十本)・楼車(三台)の順序で昔の宿場の町並み(平田地区)を巡行する。
☆祇園みこし
・神輿の重さは200キロ以上もある大神輿で、16人の若者によってかつがれ、輿を90度に傾け右左右と3回交互に舞う。
これは他に例を見ない方法といわれ、日本の祭りの中でも大神輿が舞うのは大山田村だけである。
・神輿の屋蓋の中央の鳳凰には、一把の稲の初穂を咬ませて五穀豊穣を祈願している。

社頭掲示板



郷社 植木神社

祭神 建速須佐之男神 櫛名田比売命
合殿 鳥鳴海神 事代主神 大己貴命
一條天皇寛弘元年出雲國意宇郡日御崎の住人桃木某の三男政守なる者、諸國神社を巡拝して此里に止る、一夜夢に神告あり、曰く今世に悪疫大に流行して死する者多し、故に播磨國飾磨廣峰山より牛頭天王を迎へ奉るべし、然れば悪疫速に除き去るべしと、夢覚めて後之を郷人に語る、茲歳9月9日勧請して玉手村清水谷島坂神社の相殿に鎮祭す、其後262年を経て、文永2乙巳年4月8日洪水の為に流失す、是を以て再建するに方り、里民宮地を争うて決せず、神職中井橿山両氏枯柳を折りて之を諸処に挿して神意を窺ふ、山田神社の地に挿せしもの一夜にして枝葉を生す、依つて此所を宮地と定め、社殿を造営して烏坂神社と合祭す、是の故に社號を植木牛頭天王と改む、当時領主より神領五十石を寄附せらる、降つて天正年中北畠中將信雄伊賀の乱に赴き、9年4月28日信雄及び郎党悉く亡ぶ、当社亦其災に羅り、神職植木守勝僅に神霊を奉じて遁れ、字地獄谷に隠れ小祠を建て奉齋す、此地を小家の谷と云ひ今尚其字を存す、乱平ぎて後、郷人力を合せて旧社地に宮殿を造築奉遷す、時に慶長2年なり、此時中扉に植木神社、左扉に鳥坂神社、右扉に八岐神社を配享して平田郷十ケ村の総社とす、明治2年牛頭天王の號を廃し植木神社と改称す、同7年5月4日山田郡(明治29年山田阿拝二郡を合せ阿山郡と改む)中の郷社に列せらる、而して合殿に坐す鳥鳴海神及び事代主神の二柱は鳥坂神社の祭神にして、社伝によれば、二柱神は大國主神の御子なり、往昔出雲國鴨根郡三穂の崎より此郷に奉遷鎮祭す、地名を山田山又鳥坂山と云ふ、麓に玉手村あり、傅云ふ、安寧天皇この地に行幸あり、依つて名つくと、宝亀8年神託に由り鳥坂山清水谷に宮柱を立て本郷の総社と祭敬す、次いで醍醐天皇御宇延喜の制式の小社に列し山田郡三座の中に数へらる、神名帳考証に云く、「鳥坂神社、今云鵜宮天神歟、」神社覈録に云く、「鳥坂は宇左加と訓べし(印本トサカとあるは、鳥の字に訛りて後の假字なるべし、)祭神下照姫、鳥坂村に在す、今阿拝郡に属す、」頭書に「印本鳥坂に作る、今村名に拠て改む、」又直指抄に、「繕子内親王祈りてもかひこそなけれ独寝をいつもうさかの神垣の内」とあり。神祇志料に、鳥坂神社、「後村上天皇正平元年6月丁巳、神祇官御躰御トを奏して云く、社司神事を穢すを以て、島坂神の崇あり、仍つて使を遣し、社司に中祓を科す、即此神也」と見ゆ、記して後の考定に備ふ、而して其沿革は植木神社と終始するを以て知るべし、次に合殿大己貴命は旧時八岐神社に奉祀せしものにて、惣國風土記に、「山国郡山田神社圭田六十二束三字田、天武2年8月15日始て之を祭る」と云へるが如く、圭田所祭とあるは此神社にて、当社地主の神なり、天正の兵焚に炎滅後植木神社の右殿に鎮座す云々、とあり、此くして神威赫々郷民の崇敬旧に倍すと云ふ。
社殿は本殿、拝殿、廻廊、神樂殿、神馬殿、参籠殿等具備し、境内坪敷1247坪(官有地第一種)を有す、持有祭事は昔時6月10日祇園會と唱へ盛大なる神事ありしが、北畠氏廃滅と共に亡ぷ。

明治神社誌料



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